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MWA会員の選んだ警察捜査もの ベスト10

No. 作品 著者 出版社
死者の大舞踏場 トニイ・ヒラーマン ハヤカワ文庫
笑う警官 マイ・シューヴァル&
ペール・ヴァールー
角川文庫
ゴーリキー・パーク マーティン・クルーズ・スミス ハヤカワ文庫
時を盗む者 トニイ・ヒラーマン ハヤカワ文庫
魔性の殺人 ローレンス・サンダース ハヤカワ文庫
失踪当時の服装は ヒラリー・ウォー 創元推理文庫
スティーム・ピッグ ジェイムズ・マクルーア ハヤカワミステリ
クワイヤ・ボーイズ ジョゼフ・ウォンボー 早川書房
ナイチンゲールの屍衣 P・D・ジェイムズ ハヤカワ文庫
10 凍った街 エド・マクベイン ハヤカワ文庫
10 夜の熱気の中で ジョン・ボール ハヤカワ文庫

警察捜査もの

ジョゼフ・ウォンボー

『クワイヤボーイズ』がこうした傑作のリストに入れてもらえたのは光栄ながら、その賛辞がふさわしいかどうかは疑問だ。1975年のこの手のオフビートの小説を過大評価する評論家の多くは、この本をむしろ、いわゆる“警察捜査もの”へのアンチテーゼと捉えている。

当時、私は推理や犯罪、警察、スリラーといった小説をあまり読んだことがなかった。なんとレイモンド・チャンドラーさえも! この不備はその後、補っておいたが。『クワイヤボーイズ』を書くに先立って読み返したのは、『キャッチ22』と『スローターハウス5』だった。きっと、自分が書こうとしているものが警察小説ではなく、戦争小説になると直感したからだろう。クワイヤボーイズは、あらゆるものと戦っていた。犯罪、警察のお偉方、官僚、世間、そしてことに自分自身と。

その原稿は、私の最初のふたつの小説『センチュリアン』、『ブルーナイト』とはまったく毛色のちがうものになった。ノンフイクションの『オニオンフィールドの殺人』とも共通するところはなかった。元警官として書いた最初の小説、『クワイヤボーイズ』は、それまでの自作とは別物だったのだ。14年務めたロサンゼルス警察を辞めてぶらぶらしながら、私は新しい語法をさがそうとしていた。ブラックユーモアや風刺、誇張や皮肉を使った異種の警察物語のための語法。私が語ってみたかったのは、読者が大笑いし、しかもそのことに一抹のきまり悪さを感じないではいられないような非常にシリアスな物語だった。

ひとつ確かなのは、題名は適切だったらしいということだ。最初のふたつの小説では、本の内容を読まず、センチュリアンやナイトという言葉に皮肉がこめられていることすらわからない人々の批評にも耐えなければならなかった。しかし『クワイヤボーイズ』の場合、そこに描かれている警官たちが、カソックを着て祈祷書を持った歌う天使たちではないことはだれでも推察できる(唯一の例外が、アイリツシュ・タイムズに載っていた。ダブリンの尼僧がこれを宗教的なテーマを扱った小説だと思いこんで、思春期の生徒たちに読ませてしまったということだ)。

しかし、まずはその原稿が問題だった。ひととおり目を通した出版社の編集長はうんざりしきって、この構想はあきらめて別のをやってみるよう勧めた。これには打ちのめされた。私はまともな“一般市民”に受け入れられる本も書けないただの警官あがりの作家なのか? そのまま原稿をしまいこみ、2か月気晴らしに出かけた。戻ってくると、もう一度じっくり読み直し、ニューヨークに電話をかけて言った。「やつばりこれなんだ。これ以外のものは書けない。出版してくれなくてもいいが、前払いしてもらった分は返さないよ。そっちがどうするにせよ、これは私が書くと約束した本にはちがいないんだ」

しぶしぶ承諾を得て出た本は、書評子に絶賛されただけでなく、出版社にとってもめったにない大当たりになった。あとになって、その原稿の価値を即座に認め、超ペストセラーになると見込んでくれた編集者が何人かいたことを知った。この一件で、出版社の重役が得た教訓はたぶんこうだ。もしエスカルゴが嫌いだったとしても、それが一流のシェフの手で料理されるなら問題はない。それがやはり、毒グモのように、見つけるはしから靴で踏みつけずにはいられないぬるぬるした軟体動物にしか見えなかったとしても。私はそれからも『The Glitter Dome』や、自分ではことに気に入っている『ハリー・ブライトの秘密』など、にやけた髑髏のような喜劇仕立ての、その実ひどく深刻な小説を書いていった。

それまでの“まっとうな”警察小説は決まって、警官がその仕事にいかに力を発揮するかを描こうとしていたが、『クワイヤボーイズ』では、その仕事が警官自身にどんな力を及ぽすかを描いてみたかった。そして、クワイヤボーイズのはらわたや脳みそが、世間の人々の目の前にひきずりだされた。評論家たちは“ポリス・ストレス”とやらについて語りはじめた。

ハリウッド版のほうは暴力的だったにもかかわず、たぶん『クワイヤボーイズ』は、警官の仕事は肉体的にはことさら危険ではないが、情緒的には世の中で最も危険な仕事だということを世問に知らせたのだろう。都会で警官の仕事に就く若考たちには、最悪の人間たちと出くわす心構えはどうにかできても、ごく普通の人間の最悪の面と向きあう心構えはできていない。“普通の人々”が自分の家のなかではどんなことをやらかせるものかを知るのは、特別に恐ろしい経験になりえる。

まもなく、警官特有のやっかい三段論法にとらわれる者も出てくる。人間たちはクズで、おれは人間だ。ゆえに、おれは……情緒的な問題はここからはじまり、離婚やアル中、ヤク中、自殺に至る。暗い、防御用のシニカルなブラックユーモアでカムフラージュしなければ、とうてい愉快に読める主題ではない。少なくとも私はそう思ったのだ。精神を痛めつけるような仕事が一段落するたびに、クワイヤボーイズは“クワイヤ・プラクテイス(聖歌の練習)”という酒宴に集まってきては、飲んで騒ぎ、感情を爆発させ、泣き叫ぶ(ちなみに、クワイヤープラクテイスという名は私の発明ではない。ロサンゼルス警察では、みんなこれをそう呼んでいたのだ)。

最後につけ加えておくべきだと思うが、『クワイヤボーイズ』が警察捜査もののジヤンルに該当しようとしまいと、私はどちらでもかまわない。どのみち、ジャンル分けすること自体もあまり好きではない。小説は小説、それだけでいい。この警察捜査もののリストに名のあがっている作家たちはみな、もし書こうと思えばイソギンチャクの性生活だって書けるだろうし、それも楽しい読み物にしてしまうだろう。むろん今日では、文壇全体が、わがアメリカ探偵作家クラブの同業者たちが、いわゆる“主流派”の作家に一歩もひけをとらないことを認めている。しかし、みながみな、両者の顕著なちがいに気づいているだろうか? 様々の作家の集まりに顔を出してそれぞれの種族とつきあってみたうえで、私にはひとつ自信をもって言えることがある。クワイヤ・プラクティスに連れていくなら、アメリカ探偵作家クラブの仲闇たちのほうがだんぜん楽しいということだ!

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