もとに戻る

MWA会員の選んだユーモアミステリ ベスト10

No. 作品 著者 出版社
フレッチ/殺人方程式 グレゴリー・マクドナルド 角川文庫
ホット・ロック ドナルド・E・ウェストレイク 角川文庫
強盗プロフェッショナル ドナルド・E・ウェストレイク 角川文庫
我輩はカモである ドナルド・E・ウェストレイク ハヤカワ文庫
顔を返せ カール・ハイアセン 角川文庫
にぎやかな眠り シャーロット・マクラウド 創元推理文庫
踊る黄金像 ドナルド・E・ウェストレイク ハヤカワ文庫
暗黒太陽の浮気娘 シャーリン・マクラム ハヤカワ文庫
スウィート・ホーム殺人事件 クレイグ・ライス ハヤカワ文庫
10 消えた玩具屋 エドマンド・クリスピン ハヤカワミステリ

小石、池、視野

グレゴリー・マクドナルド

どんな美術、創作、音楽、ヴィジュアル・アート、文学の歴史に残る大傑作も、われわれの人生も含めて、謎のないものはない。そう思わないか?

「おれたちはみんな解決を待ってるミステリさ」フレッチは言う。

そして、どんな大傑作もウィットをまとっている。腹をかかえたり、くすくす笑ったりするようなのでなくとも、皮肉な、気のきいたウィットを。

「おれたちはみんな断罪を待ってる歴史さ」フレッチは言う。

ミステリほど社会批判にもってこいの場はない――なにせ気楽な散文だ。統計や型も気にしなくていい。針の狂った時計や、通じない電話のことを書くだけだ。裁判官みたいに憲法のことなんか説明しなくてもいい。キューキョクの大罪より軽い罪を語ることのほうが多い。

フレッチとフリンの小説が最初に出たとき、純粋主義者たちは、ミステリ小説にはユーモアはおよぴじゃないとうるさく文句をつけた(純粋主義者はいつもそうだが、そのときもまちがっていた。ウイルキー.コリンズの『月長石』のなかで、ミス・クラックが出てくるところのおかしさときたら、19世紀と20世紀の小説中、最高じやないか)。

「……現実生活のなかでは、」イスラエル.ザングウィル(1864〜1926、イギリスの劇作家、小説家) は書いている。「ミステリーは、ひとりひとりがユーモラスな存在である人間の身に起きるのであり、不可思議な状況は、えてしてその喜劇性によってこみ入ったものになる」

『フレッチ/殺人方程式』と『死体のいる迷路』(角川文庫)が出た70年代のなかごろには、ミステリ小説は酸欠でアツプアツプしていたのかもしれない。

世界中で、文化の革命が起きていた。今世紀の後半まで続いているこの革命は、革命のお決まりのパターンで、イデオロギーよリむしろテクノロジーからはじまり(自転車、電話、車、ラジオ、テレビ、コンピュータ、避妊薬)、時間と空間の概念、神、自然、自己と他者への見方をすっかり変えてしまった。

酸素不足で喘いでいるのはミステリばかりじゃなかった。いつの時代でも、何かが根底から変わってしまうと、人間の理解力や考え方にひずみが起こって、その時々に独自の皮肉やウィットが飛び出してくる。

イッピー(YlP、ベトナム戦争に反対した政治的、反戦主義的な若者のグループ)を結成したポール・クラッスナーは、1968年にリポーターにこう言った。「宇宙的な視点を持つというのは、感覚がおかしいということだ」

人類がほんとうの意昧で宇宙的視点なんてものを持ったことがあったのか? みんな、宇宙から地球を眺めたことがあるのか?

周囲のそういう宇宙的視点や、女性や少数派、権威への新しい認識のなかで、フレッチもフリンも、といってもふたリは似ても似つかないタイプだが、要するに60年代と70年代の国際的な文化の革命以前にはいなかったような人問が登場したわけだ。

たぶん、自分たちに押し寄せてきた大きな変化を、一歩進んだ、洗練されたやりかたで受け止めようとすることが、連中のユーモアの元だったのだろう。

長いことかかって、フレツチの性格や、ものの見方を考えてみた末に、こう書きつけた
「きみの名は?」
「フレツチ」
「正確にだ」
「フレッチヤー」 (佐和誠訳)

『フレッチ/殺人方程式』の冒頭の、この最初のくだらないやりとりのなかで、フレッチのキャラクターと考え方と、あとに続く何冊かの本のトーンは決まった。

その後、フレッチものの2作目『死体のいる迷路』(角川文庫)の3章ではこう書いた。

「とんだズボンをお見せしてしまって申しわけない。手斧による殺人の現場からいそぎ飛んできたもので」 (佐和誠訳)

そして、この、フランシス・ザビアー・フリンを紹介するくだらないセリフで、フレッチとはまったくかけ離れた性格と見方をもつキャラクターができあがり、以降の何冊かのトーンも決まった。

はじめからユーモラスなミステリを書こうとしたわけではなかったから、そのころは、フレッチやフリンの出てくる小説のユーモアは、キャラクターそのものから出てくるのだという世評を受け入れていた。
いま考えてみると、そうとばかりもいえないことに気づく。

いくらヤっても満足できなかったマルキ・ド・サドと同じように、真空状態におかれた人間にはおかしみなどあるはずがない。たぶん、フレッチとフリンをとりまく登場人物の意識、ことに世の中が根こそぎひっくりかえろうとしていることへの意識の程度がユーモアの源だったのだろう。
なかには、世界をまだそれ以前の時代の掟や絶対性で見ていた連中もいたのだから。
『フレッチ/殺人方程式』より:

(フレッチ)はまっすぐ刑事部屋に向かった。
「ルポだったら裏手だ」タイプライターの前にすわる部長が言った。「お客さんをしごいている」
「邪魔したくないですね。そのお客さんにも権利があるってことをだれかが教えてやらなくていいのかな?」
「ああ、とっくにお耳に達しているともさ。最高裁判例のルポ式解釈というやつ、これがばっちりお客さんの耳に吹きこんである」
「ルボ式解釈っていうと?」
「きいたことがないって? そいつは妙なこともあればあるもんだ。こっちだってぜんぶはおぼえていない。やっこさん、とにかくこんなふうに、がたぴしおっしやる。“おめえにゃ悲鴫をあげ、血を流し、気絶し、調ぺが終わったら弁護士を呼ぶ権利がある。尋問時に受けた傷、歯が折れようがなんだろうが目に見えるかぎりの傷はむろん調書に書きとめてやる、警察がてめえを挙げる前からの傷だったとな。これでもか、これでもか”こいつをうかがったら、たいていのお客さんはぶるっちまうよな」
「当たりまえだ」

世の中の先行きを悲劇的にみている人間たちもいた。施設に入れられた老女のルイーズ・ハーペック(Fretch Won)はその“暴カの詩”のなかでこう書く。
社会保障
街の歩道は
情け容赦なく
老婦人を襲うためにある

小石が静かな池のおもてにまっすぐに落ちてさざ波が立つ。それだけなら、何の意昧もない。

見ている人問が、落としたことばの皮肉がつくる波紋に気づくことが重要なのだ。小石と池、直線と波紋、それを見ている者がいなければ、いくら皮肉がきいていても何もならない。

小石と池と、視野がいっしょになって、観察とアイロニーとウィットが生まれる。

たぶん、ただ適当なキャラクターを適当な時と場所に集めることがユーモアの源なのだろう。
小石、池、視野。
何世紀か前には、法の束縛から逃れるために西部の辺境へ行った市民たちがいた。毎日の生活は命がけで、“笑うか泣くか、銃をとる”よりほかにどうしようもなかった。

この世紀に、この場所で、ドラッグを使ったり、それでがっぽり金を稼いでいる連中のおかげで司法システムが倒壊しかかっている毎日のなかでも、(一部の見方では)西部の辺境と同じ3つの選択しかなくなろうとしている。

泣くことにも、銃をとることにも、未来はない。

ミステリのなかには涙があり、銃がある。涙も銃も生き延ぴるための保証にはならない。人が正気を失わずに生き延びる見込みは、観察して滑稽さを伝える能力のなかにある。笑うためのウィツトだ。

ユーモアは怒りを洗練するか?
ずっとそうだと思ってきた。
それじゃ、ユーモア・ミステリは洗練されたミステリか?
そいつはおもしろい考えだ!

inserted by FC2 system