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MWA会員の選んだ古典 ベスト10

No. 作品 著者 出版社
シャーロック・ホームズ・シリーズ アーサー・コナン・ドイル 各社出版
ポオ小説全集 エドガー・アラン・ポオ 創元推理文庫
月長石 ウィルキー・コリンズ 創元推理文庫
白衣の女 ウィルキー・コリンズ 創元推理文庫
罪と罰 ドストエフスキー 新潮文庫
トレント最後の事件 E・C・ベントリー 創元推理文庫
螺旋階段 メアリ・R・ラインハート ハヤカワ文庫
エドウィン・ドルードの謎 チャールズ・ディケンズ 創元推理文庫
ブラウン神父の童心 チェスタトン 創元推理文庫ほか
10 吸血鬼ドラキュラ ブラム・ストーカー 創元推理文庫

古典というジャンル

H・R・F・キーティング

今日のミステリ小説の広大なパノラマを見渡すと、そこにはこれまで世に出たあらゆる種類の小説の犯罪版がほぽ網羅されている。それらがすぺて、エドガー・アラン・ボオが1841年から45年にかけて雑誌に発表し、後に他の多くの作品とともにポオ作品集としてまとめられた3編から派生したと考えるのはいささかとっぴかもしれない。しかし、フランスの勲爵士、C・オーギュスト・デュパンが謎めいた犯罪の真相を解き明かす過程を描いたその3つの物語によって、ポオはまったく新しい類いのフィクションの不滅の原則をうちたて、その礎を築いたのである。以後、この種のフィクションは今日まで増殖の一途をたどり、書店や図書館の棚という棚を埋めつくし、書評欄にもコラムをあふれさせるようになった。

むろん、大ざっぱにそう言ってしまうと、その手の言いまわしにつきものの、事実にそぐわない部分も出てくる。たしかにポオの示した手法は受け継がれた。しかし、ただちにではなく、純粋にでもなかった。ポオの作品の発表から約40年を経て、探偵小説が絶大な人気をかちえるようになった頃には、大量のがらくたが氾濫し、ひとにぎりの宝石はその陰に隠れてしまっていた。あえて、がらくたということばを使わせてもらったのは、当時、探偵小説とされていた作品のなかには、そうとしか呼べないしろものが多々あつたからである。そこには、ありとあらゆる煽情的な小説が紛れこみ、身の毛のよだつ殺人やおぞましい強盗、無垢な乙女(たいていは白いモスリンのねまき姿)の前にぬっと立ちはだかる髭づらの悪漢など、考えつくかぎりの流血と暴力が描かれていた。それらは、われらが芸術によけいな荷物を負わせたが、それでもさいわい、正統の一筋の糸は断たれることはなかった。

最初ボオが紡ぎ出したこの糸をより太く、長くしたのはアーサー・コナン・ドイルが1887年から発表しはじめたシャーロック・ホームズの冒険譚だった。この一連のストーリが、アメリカ探偵作家クラブによって古典の最高傑作に選ばれたのは適正な結果だと思われる。ボオが天才的なひらめきによって、謎解き小説の鍵となる登場人物、すなわ名探偵というものを創造した生みの親だとすれば、ドイルはその赤子をひきとリ、チャールズ・ディケンズのことばを借りれば“育ての親”の役割を果たしたのだ。

デュパンは、ロマン主義革命と呼ばれるあの西洋思想の変動期の典型的な申し子だった。したがって彼は、人は古代の偉人たちがうち立て、固守されてきた戒律にしたがって生きるものだという信念の人でなければならず、実際そういうタイプの人間として描かれている。探偵というのは、既成概念の殻を打ち破ってみせるヒーローのひとつのモデルだったのである。

しかし、デュパンがひとつの型であったとしても、そこに刻まれていたのは名探偵の輪郭だった。ドイルはこの型に肉付けをした。超人的な知カをもちながらも、シャーロック・ホームズは、われわれ自身にも通じるところのあるひとりの人間として登場した。愛すべき弱さ、思考力に害のある物質への依存症、そしてくすぐられやすい自尊心をもったこの探偵は、いかにも生身の人間らしい。今でも、ロンドンのオフィス街、ベイカー街221Bに届くという、ホームズに助力を乞う手紙の束がなによりそれを証明している。

英国ではストランド・マガジンに、合衆国ではハーパーズ・ウィークリーとコリアーズに掲載された、このホームズを主人公とする短編が絶大な成功をおさめたことで、以後それを真似たありとあらゆる作品が続々と登場した。さらに、ホームズもののパロディやパスティーシュも現れ、今日もなお、われわれミステリ作家の多くがその種の創作に興じている。しかしもっと重要なのは、ホームズとは異なる方式で謎を解き明かすアンチ・ホームズ型の探偵がそこに加わったということだ。その代表格は、古典ジャンルのリストでも9位に入ったG・K・チェスタトンの、科学的手法に頼らない信心深いプラウン神父であろう。

ポオの後継者の系譜が連綿と続いていったのはそれからだった。ホームズ、ブラウン神父、そして、今では忘れ去られてしまったが、アーネスト・プラマーの盲目の探偵マックス・カラドスなどを経てアガサ・クリスティのエルキュール・ポアロ、ドロシー・L・セイヤーズのピーター・ウィムジイ卿、エラリー・クイーンのエラリー・クイーン、レックス・スタウトのネロ・ウルフなど、さまざまなヴァリエーションの百花繚乱となったのである。だが、煽情的な通俗小説(ワトソンは、その手の小説にホームズがやたら詳しいと言及している)のほうも、あいかわらずその鎖にフジツボのようにくっついていた。まさに玉石混交だったわけだが、玉より石のほうがはるかに多かった。

珠玉のほうの代表作として挙げられるのは、MWAの会員諸氏の熱心な支持で3位と4位に選ばれたウイルキー・コリンズの2編の小説『月長石』と『自衣の女』である。実のところ、CWA(イギリス推理作家協会)が1990年に行った同様のアンケートでは、彼らは『月長石』をこぞって古典部門の第1位に推している。そして、われわれMWAによる今回の結果もまた、誤りではなかったといえよう。T・S・エリオットの“最初の、最も長大にして、最も秀れたイギリスの推理小説”という称賛がわずかばかり的確さを欠いていたとしても、『月長石』は、やはりことばを尽くして称えられるにふさわしい小説なのである。

後世のミステリ作家たちは、ここから無数の材料を拝借した。まずこれは、無実の人間がきわめて不利な状況のもとで身の潔白を証明しなければならなくなるというストーリーの完壁な見本である。じつにみごとに描かれている登場人物、カッフ部長刑事は、それ以降、推理作家にさかんに便われるようになる「謎の断片がまとまらない」(中村能三訳)という表現を使った探偵の元祖である。さらに「これまで、とるに足りない些細なことなどというものにはお目にかかったことがない」(中村能三訳)ということば(アーサー・コナン・ドイルも好んで模倣している)。それどころか、後にダシール・ハメットの生んだサム・スペードの口にのぽる「このけがらわしい世界でもいちばんけがらわしい犯罪」(中村能三訳)というしゃれた言いまわしさえこの部長刑事はすでに使っている。大邸宅を舞台とした英国推理小説を拒絶するカリフォルニアの下町の集合的無意識が、そうした古典の最高峰のなかに大きなヒントを得ていたことに注目いただきたい。

しかし『月長石』は、推理小説の枠内におさまりきらない小説でもあり、トップテン入りした作品の半数にも同じことがいえる。たとえば『白衣の女』、ドストエフスキーの『罪と罰』、ブラム・ストーカーの純正なホラー『吸血鬼ドラキュラ』、メアリ・R・ラインハートの『螺旋階段』(なぜその古い屋敷には螺旋階段がなければならなかったのか? それが、ある強力な表象だからだ)、そして、謎解きの要素が含まれているにもかかわらず、ディケンズの『エドウィン・ドルードの謎』もまた然り。これらは犯罪小説というより、むしろ謎という引き綱をつけた純文学である。私見を述ぺれば、両者の違いは、純文学がなにより観念を表現することを主眼として書かれるのに対し、ミステリは、まず読者を楽しませることを第一義とし、二次的な狙いとしてさまざまな観念を盛り込んで読者をひきつけるところにある。

では、大西洋の向こうからやって来たこの口うるさい(しかし、アメリカ探偵作家クラブの一員としてこのアンケートに加わった)検査官は、純文学をみなリストから除外しようとするだろうか? いや、そんなことはない。たとえばドストエフスキーがラスコリニコフというひとりの学生の恐ろしい心の起伏を推理小説とはまったく異なる目的で描いたのだとしても、『罪と罰』はやはり、後世の推理作家たちの尊敬すぺき手本と位置づけてよいと思われる。

というのも、1920年代から40年代までの流れがどどうあれ、今日では、ほとんどの推理小説が純文学の要素を、ふんだんに持ちあわせているからである。1913年の時点では、探偵小説のわざとらしさを徹底して疑問視し、その形式を借りてやりこめようとしたE・C・ベントリーにとって、それ以外の選択はありえなかった。その『トレント最後の事件』が、今ではその探偵小説の分野で屈指の古典となっているのは、すばらしい皮肉としか言いようがない。

しかし、探偵小説の礎をふまえながら、さらにその可能性を広げようとする今日の作家にはもっと別の道が開かれている。好むと好まざるとにかかわらず、われわれ今日の推理作家は純文学のテリトリーにより深く根をおろしている。楽しく読ませながら、いやがおうにもわれわれ男性の目を開かせるフェミニストのミステリ作家たちの、正面玄関の扉を威勢よく叩くような作品であれ、あるいは鍵のはずれた窓からそっと忍びこむがごとく、主題を底流からかすかにのぞかせる作品であれ、みな、新しい道を拓くことにカを注いでいる。だからこそ、われわれは始祖たちからインスピレーションを得ることができる。『月長石』の“ふるえる砂”に象徴される、穏やかなうわべの下に隠れた戦標すべき不条理。『白衣の女』のなかば隠された性衝動。『罪と罰』からは悪についての偉大な考察を。『エドウィン・ドルードの謎』からは人間の二面性を。これらは、単なる犯人さがしを超えて、実に多くのものを与えてくれる。ミステリ史の初期の古典は今なお、われわれにけっして小さくはない声で語リつづけているのである。

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