「ロビイ」
これはわたしが最初に書いたロボットものの小説だ。間もなくカレッジを卒業する19歳のとき、
1939年5月10日から22日までかけて書き上げた。発表にはちょっと問題があって、ジョン・キャンベルには不採用にされ、
アメージング・ストーリーズ誌にも蹴られたが、1940年3月25日にこれを読んだフレッド・ポールが気に入ってくれて、
彼が編集していたスーパー・サイエンス・ストーリーズ誌の1940年9月号に掲載された。
フレッド・ポールはいかにもフレッド・ポールらしく「奇妙な遊び友だち」と題名を変更したが、
のちに『われはロボット』に収録するときもとに戻して、それ以後はずっと「ロビイ」のままだ。
はじめてのロボットものであるということを別にしても、「ロビイ」の重要性は、
ジョージ・ウェストンが看護婦の役割を果たしているロボットを弁護して、妻に言う言葉に表れている。
「こいつは忠実で愛情深く親切でいることしかできない。機械なんだから――そういうふうにつくられているんだ」これはのちに
「ロボット工学三原則第一条」となるものの、最初の小説における最初の言明にあたる。
ロボットには安全なルールが組み込まれていることが、ここではじめて明確にされている。
「われ思う、ゆえに……」
マイナーな雑誌に掲載されたこともあって、もし続きを書かなければ、「ロビイ」はなんの意味もない作品になってしまっていたろう。
だがわたしは二作目のロボットものを書き上げた。それが「われ思う、ゆえに……」で、こんどはジョン・キャンベルも気に入ってくれた。
これに少し手を入れたものが、アスタウンディング・サイエンス・フィクション誌の1941年4月号に掲載された。
この作品は注目され、読者も、またキャンベルも、「陽電子頭脳ロボット」の存在を認知するようになった。
それであとのことが可能になったのだ。
「うそつき」
アスタウンディング誌の次の号、1941年5月号には、三つめのロボットもの「うそつき」が掲載された。
この作品が重要なのは、私の初期のロボットものにおいて中心的なキャラクターとなる、スーザン・キャルヴィンがはじめて登場したためだ。
この作品は本来ややぎこちなさを感じさせるところがあった。その主な理由は、異性間の関係を題材に採りながら、
当時のわたしはまだ若い女性とデートした経験がなかったということにある。幸いにもわたしは覚えが早く、
この作品は『われはロボット』に収録する前に大幅に手を加えることになった。
「堂々めぐり」
次に重要なロボット小説は、アスタウンディング誌1942年3月号に掲載されたこの作品だ。
ここではじめてロボット工学三原則が、物語のなかに埋め込むのではなく、独立した文章として明記された。
登場人物のグレゴリイ・パウエルが、もう一人の登場人物マイケル・ドノバンにこう言うのだ。
「いいか、ひとつここでロボット工学の三つの基本原則にたちもどってみよう――ロボットの陽電子頭脳に深く刻み込まれている
あの三原則だ」このあと彼は三原則を暗誦してみせる。
その後わたしはこれを「ロボット工学三原則』と表現するようになった。
この原則がわたしにとって重要なのは、次の三つの点による。
- 物語のプロットを構成する案内役になってくれる。そのおかげでわたしは、
ロボットものの多くの短篇と数本の長篇を書くことができた。
それらを書きながら、わたしはいつも三原則の意義を学びつづけていた。
- どこからどう見ても、これはわたしのいちばん有名な文学的発明で、年がら年じゅうどこかに引用されている。
いつかわたしの著作がことごとく忘れ去られる日が訪れても、ロボット工学三原則がいちばん最後まで残ることは間違いない。
- 先に引用した「堂々めぐり」の文章は、「ロボット工学(ロボティクス)」という用語が英語の印刷物において
はじめて使われた例となった。このため、前にも書いたとおり、わたしはこの言葉(「ロボット工学」のほかに、
「陽電子工学」と「心理歴史学」についても)の発明者としてOEDに名前が載っている。
そしてOEDはわざわざスペースを取って、この三原則を引用している(これらはすべて22歳の誕生日以前の業績だ。
それ以来何も創りだしていないのかと思うと、嘆かわしい気持ちになることがある)。
「証拠」
これはわたしが軍隊で8ヶ月と26日を過ごすあいだに書いた唯一の作品だ。
親切な司書を説き伏せ、昼休みのあいだ鍵のかかる図書室を使わせてもらって書いたものだ。
この作品で、ヒューマノイド・タイプのロボットをはじめて登場させた。
このヒューマノイド・ロボットのスティーブン・バイアリイ(作品中では彼がロボットなのかどうか最後までわからないままにしておいた)は、
わたしのその後の長篇になんども登場する人間形態ロボット、R・ダニ―ル・オリヴォーの原形をなすキャラクターだ。
「証拠」はアスタウンディング・サイエンス・フィクション誌の1946年9月号に掲載された。
「迷子のロボット」
わたしのロボットたちは優しい。実際、話の進展につれて彼らは徐々にモラルや倫理を身につけはじめ、
ついには人間をはるかに凌駕して、ダニールなど神に近いほどになっていた。それでもわたしはロボットを救世主にしようとは思わなかった。
自分の想像力の風向きのままに、ロボットという現象の不愉快な側面からも目をそらしたりはしなかったのだ。
これを書いているほんの数週間前、読者から抗議の手紙が届いた。つい最近刊行されたロボット小説のなかで、
わたしがロボットの危険な側面を画いたという抗議だった。そういう書きかたは無神経だというのだ。
その読者が間違っていることは、すでに半世紀近くも前、ロボットを悪役にした「迷子のロボット」で証明されている。
ロボットの暗黒面を画いているのは、わたしが老いぼれて無神経になったためではない。それはつねにわたしが考えてきたことなのだ。
「災厄のとき」
この作品は「証拠」の続篇で、アスタウンディング誌の1050年6月号に掲載された。これはロボットよりもコンピューター
(作中では単に「機械」となっているが)を中心に据えた、はじめての作品だった。もっとも、ほかの作品とそれほど大きく違うわけではない。
ロボット自体が「コンピューター化された機械」または、「動けるコンピューター」と定義できるからだ。
逆にコンピューターを「動けないロボット」と考えることもできる。いずれにしても、わたしは両者をはっきりとは区別していない。
作中で明確に外観を描写していない「機械」は間違いなくコンピューターだが、わたしはためらうことなくこの作品を、
ロボットものを集めた『われはロボット』に収録したし、出版社からも読者からも文句は出なかった。
確かにスティーブン・バイアリイは登場するが、彼のロボット性の問題は、この作品ではなんの役割も演じていない。
「投票資格」
これはわたしがコンピューターをコンピューターとして扱った最初の作品で、これを書いているあいだ、
ロボットのことは頭に浮かびもしなかった。発表は1955年8月、イフ――ワールド・オブ・サイエンス・フィクション誌上だ。
そのころにはわたしもコンピューターの存在になれてきていて、「マルチヴァク」というコンピューターを登場させた。
これは実在の「ユニヴァク」コンピューターをもっと大きく複雑にしたもので、この作品でも、
またマルチヴァクが登場するほかの作品でも、いずれも巨大な機械として描かれている。
コンピューターの小型軽量化を予言する機会を逸してしまったというわけだ。
「最後の質問」
だが想像力はいつまでもわたしを裏切りつづけたりはしなかった。「最後の質問」はサイエンス・フィクション・クォータリー誌の
1956年11月号に発表され、そこでわたしはコンピューターの小型軽量化を論じ、(コンピューターと人間双方の)
1兆年にわたる進化の跡を追うことで、その論理的な帰結にまでたどり着いた。それがどんな帰結なのかは、
小説を読んでもらうしかない。これは疑いなく、自分が書いた作品のなかでわたしがいちばん気に入っているもののひとつだ。
「ナンバー計画」
コンピューターの小型化は、この物語ではごく小さな役割しか果たさない。イフ誌の1958年2月号に載った作品で、
これもわたしのお気に入りのひとつだ。この作品に登場するポケット計算機が実際の市場に現われたのは、
発表から10年か15年くらいたってからのことだった。またこれは技術の進歩を予見しただけでなく、
技術の進歩がもたらす社会的な影響をも正確に予見した小説となった。
ここで扱ったのは、コンピューターを使いつづけることで、簡単な算術計算をする能力が失われてしまう可能性だった。
わたしとしてはコンピューターと辛口の皮肉を取り混ぜた風刺のつもりだったのだが、現実は予想以上にこの小説に近づいているようだ。
近ごろのわたしは電卓を持ち歩いており、854から182を引くといった簡単な計算をする手間さえ惜しんで、つい計算機を使ってしまう。
「ナンバー計画」はわたしの作品のなかでも、とくによくアンソロジーに収録されている一篇だ。
ある意味でこの小説はコンピューターの否定的な側面を描いているわけだが、この時期のわたしは、
虐待されたコンピューターやロボットがまるで復讐のような反応を示す話を書いている。
コンピューターのほうはインフィニティ・サイエンス・フィクション誌1956年8月号に掲載された「いつの日か」を、
ロボットのほうなら(自動車の形態をしているが)ファンタスティック誌1953年5・6月号に載った
「サリイはわが恋人」を見てもらいたい。
「女の直感」
わたしのロボットたちはほとんどつねに男性だ。もっとも、実際には性差はかならずしも物語に関係していない。
要するに男の名前を与えて、「彼」と呼んでいるというだけのことだ。「女の直感」は女性編集者ジュディ・リン・デル・レイの発案で
書かれることとなり、ファンタジー&サイエンス・フィクション誌1969年10月号に掲載された。
この小説の見所のひとつは、わたしが女性ロボットも書けるということを示した点にある。もちろん金属製ではあるが、
いつもわたしのロボットに比べてウェストが細く、女性の声で話す。その後『ロボットと帝国』のなかに、
わたしは女性型ヒューマノイド・ロボットの登場する章を設けた。彼女は悪役だったので、
つねづね女性に対する称讃を惜しまないわたしを知る人々には、きっと驚きだったことだろう。
「バイセンテニアル・マン」
1976年刊行の、ジュディ・リン・デル・レイ編集によるオリジナルSFペーパーバック・アンソロジー『ステラ2』Stellar #2
が初出のこの作品は、ロボットの成長ということを説明するために、わたしがいちばん考え抜いて書いたものだ。
ここでの結末は、「最後の質問」とはまったく違ったものになる。ここで扱われるのは人間になりたいというロボットの願望であり、
彼がその願望を一歩また一歩と実現していく様子だ。ここでもわたしはプロットを最後の論理的な結末まで推し進めた。
書きはじめたときには、こういう話にするつもりではなかったのだが、物語がみずから語りはじめ、
タイプライターのなかでこういう話に変形していったのだ。できあがってみると、これはわたしが三番目に好きな作品になっていた。
これよりも上位にくるのは前述した「最後の質問」と、ロボットものでない「停滞空間」だけだ。
「鋼鉄都市」
これはギャラクシイ誌の編集者ホレース・L・ゴールドの示唆で書きはじめた作品だ。ロボットものには短篇がふさわしいと
思っていたわたしは最初かなり抵抗したのだが、ゴールドはロボット探偵の登場する殺人ミステリを書けばいいと提案したのだった。
わたしはその提案を部分的に受け入れた。探偵は完全な人間のイライジャ・ベイリ(個人的な意見だが、
たぶんわたしの創造したキャラクターのなかではいちばん魅力的だと思う)とし、そこに助手としてロボットの
R・ダニール・オリヴォーを配したのだ。この本は、ミステリとSFが完璧に融合した一例だと思う。
1953年の10月、11月、12月と三回に分けてギャラクシイ誌に掲載され、1954年にダブルデイから長篇として刊行された。
この本で驚かされたのは、読者の反応だった。ライジ・ベイリもそれなりに歓迎されたものの、
読者の共感は圧倒的にダニールのほうに傾いていたのだ。わたしとしては二次的なキャラクターだと思っていたのだが、
この傾向はとくにわたしに手紙を書いてくる女性に顕著だった(ダニールを発明してから13年後、
テレビで《スタートレック》が放映された。ミスター・スポックのキャラクターはダニールによく似ている。
これは文句をつけているのではない。そして《スタートレック》を観ている女性たちは、とくにミスター・スポックがお気に入りのようだ。
そのあたりの心理を分析してみるつもりはないが)。
「はだかの太陽」
ライジとダニールは人気が出て、わたしは続篇を書くことになった。それが『はだかの太陽』だ。
1956年10月号、11月号、12月号の三回に分けてアスタウンディング誌に掲載され、
1957年にダブルデイから長篇として刊行された。これもまた評判がよく、とうぜん三作めを、ということになって、
実際1958年には書きはじめていたのだが、あれやこれやと邪魔が入って、結局1983年まで書き上げることはできなかった。
「夜明けのロボット」
ライジ・ベイリとR・ダニールのシリーズ三作めの長篇で、ダブルデイ社から1983年に出版された。
ここでは第二のロボット、R・ジスカルド・レヴェントロフを登場させた。彼もダニールと同じように人気を博したが、
わたしはもう驚かなかった。
「ロボットと帝国」
ライジ・ベイリを(老齢によって)死なせなくてはならなくなったときも、まだダニールは残っていたので、
シリーズ四作めを書くのになんら問題はないと思った。かくして『ロボットと帝国』は、1985年にダブルデイ社から出版された。
ライジが亡くなったときもいくらか反応はあったが、プロットの山場でR・ジスカルドを死なせる必要があったこのときには、
お悔やみの手紙が嵐のように舞いこんだものだ。
ロボットものとしては、この作品で終りだが、アシモフはこのあと銀河帝国興亡史を書き続けてこのロボットものとの融合を図っている。
『ファウンデーションと地球』ではR・ダニールが重要な役を帯びて登場してくる。