豊饒の地(下) 豊饒の地(上)
著作名
豊饒の地
著者
フェイ・ケラーマン
ジャンル
警察小説
星の数
★★★
出版社
創元推理文庫
原作出版
1990
備考
本書解説(温水ゆかり)より一部抜粋

本作はラビとの週一回の聖書勉強会を終えて帰宅の途にあったデッカーが、新興住宅地の庭先でかわいらしい赤ん坊を見つけるところからはじまる。赤ん坊は赤い模様のパジャマの身ごろあたりから、無傷なのに血の臭いを漂わせていた。母親はどうしたのか。そんな折、ベトナム時代の戦友エイベルが売春婦にナイフをつきつけ、レイプしたあと暴力をふるったとして逮捕される。が、彼は見に覚えがない。無実だという。デッカーは保釈金を肩がわりし、戦友のために事件を個人的に調べてみようとする。一方、NYへ去ったリナとも、二人の関係についてそろそろ結論を出すべき時期にきていた。彼女は新米“ご都合主義”ユダヤ教徒を受け入れてくれるだろうか? デッカーはリナを我が家に迎えた再開の余韻にひたる間もなく、相棒マージとともに手がかりを追って谷あいの小さな村をめざすが、彼らがそこで見たのは、絶えがたい腐臭を放つ惨殺死体の山だった。

そんなわけでデッカーは、赤ん坊が導いた殺人事件、管轄外の性犯罪、リナという最愛の女性との行く末、といういわば三つの難事件をかかえることになる。すべてが警官の仕事ではないが、重複しつつ三つが同時進行で解決に向かっていくさまは、これはもう、モジュラー型警察小説といっていいだろう。しかもそれぞれの事件には、正義、友情、愛、という人間の根幹にかかわる暗喩がひそんでいる。

特に後者の二つはリナとエイベルが出くわしたことで微妙にリンクし、デッカーとエイベルを封印したはずのベトナムの悪夢へとひきき戻す。ここでも悲劇的な出来事を通して、凝縮された正義と友情と愛の主題がリフレインのように響いてくるのだけれど、サイド・ストーリーのようにみえながら、このエピソードはよくも悪くも、心優しい家庭の主婦が頭の中でこさえた“誠実な男”ピーター・デッカーの存在に血の通った厚みを、表情に痛みをしる中年男の陰影を彫琢したと思う。

今回、ほんの少ししか登場しない人物達が素晴らしくよく描けているのも特徴だろう。舌下に錠剤を入れて二年後の年金生活を夢見ていたハリウッド署のアンドリック刑事、ビバリーヒルズの豪邸に住む孤独なリリアン、電話で狼狽を示すリナの義姉。登場人物表に名前のある人物はもちろん、名のない人も忘れがたい印象をのこす。

前二作では、女性ならではの生真面目さと純真さを、ややもすればミステリーとしての味わいよりも人生観や恋愛観に奉仕させてきたフェイ・ケラーマンだが、本作ではそれを人物造型に向けたところが高く評価できるとおもう。ベトナム戦争で恋人と片脚と完全な覚醒の一部を失くしたエイベル・アトウォーターの人物像などは、女性の母なる心からしか生まれない限りなく優しい視線にくるまれて、哀切を漂わせている。

謎が謎をよぶわけでもない。捜査が、追う者と追われる者との対決シーンになるわけでもない。それでもフェイ・ケラーマンは、チャイルド・アビュースや性犯罪が日常化しているアメリカを、“約束の地”を目指して暮らした人々の夢と残酷な失意を、若き日のベトナムと消えることのない傷跡を、罪深き者には容赦しない父権の国のメンタリティを、モザイク模様で描ききった。


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