「剣客商売」浮沈十八年間にわたって書きつづけられた『剣客商売』も十六冊目の『浮沈』で終る。 『剣客商売』の連載が「小説新潮」にはじまったのは昭和四十七(1972)年、『浮沈』は 同誌の平成元(1989)年の二月号から七月号に連載された。作者が健在であれば、十七冊目、 十八冊目の『剣客商売』が書かれただろうが、作者は『浮沈』を書きおえて、惜しくも世を去った。

『浮沈』は再読して、『剣客商売』の最後にふさわしい小説に思われた。登場人物たちの死が語られている。 秋山小兵衛が九十三歳まで生きることに作者は三度も触れている。

『浮沈』は天明四(1784)年、秋山小兵衛六十六歳から翌年にかけての物語であるが、 その先のことにまで触れられている。物語は小兵衡の二十六年前の回想からはじまる。 宝暦(ほうれき)八(1758)年、小兵衡は深川十万坪で父の敵を討つ滝久蔵(たききゅうぞう)を助けて、 立会人の山崎勘介(やまぎきかんすけ)と斬り合い、やっとのおもいで山崎を斬り殪(たお)し、 久蔵もまた首尾よく敵にトドメをさす。

この強敵を殪してから、小兵衛は、剣客としていっそう精進しなければと思いきわめる。 その翌朝、四谷の道場へ客が訪ねてきた。その客は年齢は三十五歳だそうだが、頭は禿げかかって髷も小さく、 それで十も十五も老けて見えて、ぎょろりとした三白眼(さんぱくがん)が気味悪く鷲鼻(わしばな)は猛々しく、 「まるで、蛞蝓(なめくじ)が二つ並んだような」唇の平松多四郎である。

小兵衛に言わせれば、「あの人は、顔で損をしている。いかにも強欲な金貸しを絵に描いたような顔」 の持主であるが、どちらも相手に好意を持っている。小兵衛は道場を改築するために、 多四郎から金を借りたが、毎月かならず返している。

作者はここでさりげなく、はなしを天明四年の秋に移すのだが、滝久蔵や山崎勘介、 平松多四郎の登場はいわば序幕である。この天明四年の初夏に小兵衛は皆川石見守の事件に巻きこまれて、 「二十番斬り」という離れ業をやってのけた。その顛末は前作の『二十番斬り』でスリル満点に語られている。

このとき、小兵衛は得体の知れぬ目眩(めまい)におそわれて、「わしも、あの世へ行くときが 切迫して来たようだな」と思うのだが、暑い真夏を無事に乗りきった。
(「先生は天狗さまだから、決して死ぬようなことはないのですよう」
 若い妻のおはるを安心させた。
 おはるは、小兵衛より四十も年下で、健康そのもののような女であったがあの世へ旅立ったのは、おはるのほうが先である。
 何しろ小兵街は、九十三歳の長寿をたもったのだから……。

作者がこう書いたとき、おはるの晩年が見えていたのにちがいない。それははっきりとした イメージではなかったろうが、おはるの死にまつわることが作者の脳裏に浮かんでいたのだろう。

小兵衛はその夏、〔同門の酒〕に登場する老剣士の神谷新左衛門(かみやしんざえもん)から、 行方知れずとなっていた滝久蔵の消息を聞く。しかも、秋の朝、おはるの漕ぐ舟で仙台堀(せんだいぼり)の 亀久橋北詰(かめひさばしきたづめ)にある蕎麦屋〔万屋〕(そばやよろずや)に行くと、 そこへ「ぶよぶよに肉がつき、顎なぞは二重三重に括(くぐ)れ、両眼(りょうめ)は濁り、 光が消えている」滝久蔵がはいってくる。久蔵は小兵衛に気づかないで、店の主人に無理を言い、 逆に追い出されてしまう。小兵衛はわが身を考える。
(あれから二十六年の歳月がたっているのだ。あのころの小兵衛は髪も黒かったし、小柄ではあったが、 いまよりは体格もがっしりとしていた。それが、いまは、髪も白く、着ながしに脇差(わきざし)一つの、 竹の杖(つえ)をついているという姿になってしまった)

久蔵の変りはてた姿を四谷の弥七(やしち)に伝えると、弥七は言う。
「ともあれ、人聞というものは、辻棲(つじつま)の合わねえ生きものでございますから……」
 弥七の言葉は小兵衛の、そして作者の考えでもある。小兵衛は久蔵の行動を弥七に探らせるかたわら、 鰻売(うなぎう)りの又六を呼びよせる。又六は根岸流(ねぎしりゅう)の手裏剣(しゅりけん)の名手、 杉原秀(すぎはらひで)を連れてくる。この二人の関係をいちはやく見破るのは小兵衛ではなく、おはるである。 おはるは、秀が又六の子をみごもっていると小兵衛に耳打ちする。又六の母親は二人の結婚に反対し、 小兵衛の説得で折れるが、これはのちのはなしだ。
 又六と秀は『二十番斬り』のとき、いっしょにはたらいて、「いつしか秀は、又六を可愛(かわゆ)く おもうようになった」らしい。「女は、そうなるとかあっと血がのぼって、どのようなことでも仕てのけるものじゃ」

小兵衛のこのような台詞(せりふ)に接すると、作者の肉声を聞くおもいがする。といって、 作者から女性に関する意見を直接にうかがったことはない。そうではあるが、小兵衛の女についての考察を知ると、 これは作者の考えではないのかと思ってしまうのである。作者が経験で得た、たしかなことではないか、と。

小兵衛は滝久蔵が住む佐賀町代地に近い陽岳寺(ようがくじ)で、二十六年前に斬った山崎勘介と 瓜二(うりふた)つの若者を見かける。この若者のあとをつけて、小兵衛は深川十万坪まで来てしまう。 若者は「卒肝ながら……」と小兵衛に声をかけられ、山崎勘介が父親であると言い、山崎勘之介と名乗る。

その日、小兵衛は何も言わなかったが、後日、山崎勘介を斬ったことを正直に打明けると、 敵意を見せるどころか、亡き父の話を聞きたいと言い、小兵衛に会えたことを「亡き父も、 よろこんでおりましょう」とよろこぶのである。

さらに、小兵衛は金貸しの平松多四郎が陽岳寺に滝久蔵を訪ねたことをつきとめ、小兵衛と山崎勘之介と 平松多四郎が一本の糸で結ばれたようになり、三人の共通の敵がしだいに姿を現わしてくる。

平松多四郎には伊太郎という一人息子がいる。年齢は二十七歳で、根津の岡場所の女、お篠に狂って、 父親を嘆かせている。そのお篠は「牛夢(ごぼう)女」の異名があり伊太郎に言わせると、「色の黒い、 凧(たこ)の骨のような女」なのだが、「いったん、男が、この肌身の虜になったらもう足も手も 抜けなくなってしまうことは、だれよりも一番、伊太郎がよくわきまえていることであった」

牛蒡のような女は、『剣客商売』のほかの作品にも登場するが、『鬼平犯科帳』にも出てくる。 作者が好んで登場させる岡場所の女である。『剣客商売』には、春風のようなおはるのような女、 秋山大治郎の妻となる元女武芸者、三冬のような女のほかに、さまざまの女を作者は描きわけているが、 とくに「牛蒡女」は印象に残る。男が逃げだしたくとも逃げだせない、不思議な魔力を持った女である。
 だが、江戸をはなれることになった伊太郎は、お上の目を覚悟でお篠に会いにいき、それとなく別れを告げる。

小兵街、勘之介、多四郎をめぐる事件は解決に向うが、この天明四年は、小兵衛が「今年も、 いろいろなことがあった。あっという間に一年が過ぎてしまったわえ」と弥七に言うほどの年だった。 このとき、弥七は四十四歳。小兵街は「わしのほうが一足先に行き、待っていようよ」と弥七に言う。
〈小兵街は、そう信じていたのだが、十五年たってみると、弥七は、この世にいなかった。そして、 秋山小兵衛は、まだ生きていたのである)

あけて天明五年、秋山小兵衛六十七歳、おはる二十七歳、秋山大治郎三十二歳、三冬二十七歳、小太郎四歳。

小兵衛は金持ちである。弥七に仕事を頼むとき、たっぷりと軍資金をわたす。小兵衛が金にこと欠かないのは、 金貸しの浅野幸右衛門(こうえもん)が小兵衛に千五百余両を遺して亡くなったからだ。 このことは〔金貸し幸右衛門〕にくわしい。小兵街は幸右衛門の遺産を世の人助けのために遣うことにして、 千二百両ばかりを外神田(そとかんだ)で人宿(ひとやど)(口入屋)をやっている駿河屋八兵衛 (するがやはちぺえ)に預けた。八兵衛はそれを投資して、その利益をときどき小兵衛にわたしている。
(だが、小兵衛は九十三歳まで生きて、駿河屋八兵衛は十年先にあの世へ旅立ってしまうことになる)

『浮沈』が結末を迎えたとき、小兵衛は七十五歳になっている。
(もう、以前のように、しゃべることも少なくなり、おはるを相手に、いつも黙然として日を送っている。 躰も一まわり、小さくなっていた)

昭和四十七年から十八年にわたって書きつづけられた『剣客商売』はこうして終りを迎えた。 『剣客商売』の第一話「女武芸者」が書かれたとき、作者にとって死は遠いかなたにあった。
 秋山小兵衛が五十九歳で、のちに息子・大治郎の妻となる佐々木三冬に会ったとき、作者はまだ四十九歳だった。 だが、一冊書くたびに作者は小兵衛の年齢に近づいてゆく。そして、小兵衛が本書で無外流霞(かすみ)の一手で 伊丹又十郎を成敗したのが、六十七歳。単行本『浮沈』刊行の翌年、池波先生は同じ六十七歳で亡くなられた。 不可思議なこの一致に、私は先生が死を予感していたように思われてならない。

『剣客商売』のはじめの数巻は明るさにみちている。秋山ファミリーから笑いがたえないようである。 その明るさが作者の心境と体調を反映してか、しだいに失われてゆく。それでも、このシリーズは無類におもしろい。 作者は秘術をつくして、読者を楽しませる。それが作者の死を早めたように思われる。

没後にいっそう作者は読まれるようになった。女性の読者がふえた。聞いた話であるが、若い女性が二人、 蕎麦屋で酒を飲んでいて、なぜ蕎麦屋で飲むのかと彼女たちにたずねたところ、「私たち、 池波正太郎ごっこをしているの」という返事だったという。蕎麦屋で酒を飲む楽しさを教えてくれたのは、 『剣客商売』の作者である。

私事を書けば、この文庫の解説は、池波正太郎先生がご健在のころ、私から志願した。 十三年前のことである。そのころ、よく晴れた冬の朝だったが、神田神保町(じんぼうちょう)で たまたま先生に会い、コーヒーをご馳走になったのが、つい昨日のことのように思われる。

(平成十年二月、作家)

inserted by FC2 system