「剣客商売」勝負日本橋で乗ったタクシーの運転手に、お茶の水の山の上ホテルと行先を告げると、その返事が丁寧だった。 はい、わかりました。珍しく制帽をかぶった、実直そうな初老の運転手である。

赤信号で車を停めると、彼は話しかけてきた。山の上ホテルというのは池波正太郎先生の定宿でしょう。や はり日本橋から山の上ホテルまでお乗せしたことがあります。

運転手は池波正太郎の愛読者だった。『鬼平犯科帳』も『剣客商売』も『食卓の情景』も文庫で読んでいる という。『仕掛人・藤枝梅安』は読んだかと訊いてみた。文庫で読みましたという返事である。

池波さんの読者であれば、受け答えも礼儀正しいはずだ。池波先生はおもしろいですねえと彼はなんども言っ た。私は嬉しくなって、おりるときにチップをわたした。これはまぎれもなく池波さんのまねである。

池波さんはタクシーに乗ると、かならず心づけを運転手にわたした。そうすれば、運転手は嬉しいだろうし、 つぎに乗る客に対して愛想もよくなるだろう、それが大事なのだよと言われたことがある。

『剣客商売』の秋山小兵衛もまた四谷・伝馬町の御用聞き、弥七、その下っ引きの傘徳こと徳次郎に用を頼む ときは、二人ともが恐縮するほどにたっぷりと金子(きんす)をわたしている。浅草・山之宿(やまのしゆく)の 駕籠(かごや)屋(駕籠駒)の留七や千造にも十分にこころづけをはずむ。小兵衛の気前のよさ、お金の遣い方の うまさは貧乏な読者にとっては羨しいかぎりである。家のローンや子供の進学や税金などで鬱陶(うっとお)しい しい日々を送っている読者は、小兵衛が弥七や留七などにぽんと金をわたすシーンを読むと、胸がすっとするおも いがする。

老境にはいったら、私たちもまた小兵衛のように金に不自由しない身になりたいと願い、彼のように融通無碍 (ゆうずうむげ)でありたいと思う。小兵衛は悪を懲らしめる老いたヒーローなのであるが、この老剣客にも凡人 なみの悩みがあるので、いっそう彼に惹(ひ)かれるのである。

小兵衛は四十歳も年齢がちがうおはるに手を焼いている。大治郎の妻、三冬の産み月が迫って、小兵衛がま るで自分の子が生れるかのようにそわそわしていると、当然、おはるの機嫌がよくない。彼女は悪態をつく。
「そんなに男の子がほしければ、私に産ませてごらんなさいよう」
「私が子を産めば、その子に孫ができますよう」

悪態をついても、おはるには可愛らしさがある。彼女の台詞の語尾がかならず「よう」になるのは、じつに 愛嬌があって、小兵衛が女の嫉妬と虚栄は「相手かまわず、ところきらわず」と苦笑を浮かべながらも、まんざら でもないようすが目に見えるようだ。

『勝負』の第一話「剣の師弟」は、小兵衛がおはるの不機嫌を思いかえすところからはじまる。ころは新緑の 季節。まだ淡い夕闇(ゆうやみ)に新緑のにおいが噎せかえるようにたちこめている。そして、最後の第七話、 「小判二十両」では、小兵衛は初時雨(はつしぐれ)の音を聞きながら、炬燵(こたつ)にもぐりこんでいる。 『勝負』は晩春から初冬にかけての七つの物語である。

その一編一編に秋山ファミリーの新しいメンバーである小太郎が登場してくる。七編の一つひとつの事件の おもしろさもさることながら、小太郎をめぐるエピソードも『勝負』の読みどころである。

「剣の師弟」ではまだ小太郎は生れていない。小兵衛としては初孫(ういまご)は男でも女でも、どちらでも よいのであるが、まず男の子が欲しいと思い、そわそわと落ちつかないで、おはるのご機嫌をそこねる。

第二話の「勝負」で待望の初孫誕生となるが、この一編では小兵衛は傍役(わきやく)にまわり、主役は大 治郎だ。ここにも作者の周到な配慮がうかがわれる。

大治郎がまきこまれる事件も「剣の師弟」にくらべれば、暗いものではない。といって単純なことでもない。 大治郎は小石川に一刀流の道場を構える高崎忠蔵(ちゅうぞう)の高弟、谷鎌之助(かまのすけ)と「勝負」をし て負けるのだが、その負け方がさわやかである。その勝負のつけ方が見事というほかはない。

谷鎌之助と別れたあと、思(おもい)川の流れをこえて大治郎は家路を急ぎ、真崎稲荷明神社(まさきいな りみようじんしゃ)の裏手の丘をのぼりきったとき、近くの百姓の玉吉が石井戸で水を汲んでいるのが見えた。玉 吉はおきねの亭主である。おきねは『剣客商売』シリーズの第一編「女武芸者」の冒頭に登場して、道場を構えた ばかりで弟子がひとりもいない大治郎に根深汁の朝めしを食べさせる。

大治郎は玉吉の忙しそうなようすを見て、はっとなり、小道を走りだす。玉吉は気がついて駆けよってくると、 男の子が生れたことを大治郎に告げる。安産で、母子ともに元気であり、大治郎が家に飛びこむと、三冬の産室か らすこやかそうな赤子の泣き声が聞こえてくる。

その半刻ほどあと、小兵衛がおはるの漕ぐ小舟でやってくる。大治郎が父を迎えに行ったのだ。「剣の師弟」 でかつての弟子を斬って、このところ気が滅入っていた小兵衛も男子出生を聞いて破顔一笑、谷鎌之助との「勝負」 を大治郎から聞くゆとりもできて、「剣客商売」の哲学を説くのである。

「剣をもって、人を助くることができるなら、木太刀の試合ひとつに負けたとて何のことやあろう。な、そう ではないか……」

だが、おはるは小兵衛に憎まれ口をきくのである。それもまたユーモラスで可愛らしい。
「これで先生も、若先生に頭があがらなくなったよう」
「だって、もう、大先生は私に子を生ませることができないものねえ」

川蜻蛉(かわとんぼ)がしきりに飛んでいて、空は真青に晴れあがっている。初夏。小兵衛は初孫の名前に ついて思案をめぐらしはじめ、第三話の「初孫命名」へとはなしは移ってゆく。

ところが、初孫の名前はなかなか決まらない。大治郎はひそかに父親の名前から一字もらって、小太郎と命 名しようかと想い、三冬もおはるも賛成するが、小兵衛ひとり反対する。孫の名前は自分がつけようという小兵衛 は大治郎に対して、頑固(がんこ)おやじだ。

このあたりがなんとも滑稽である。小兵衛は鯉太郎(こいたろう)とか鯛之助(たいのすけ)とかいった名 前を考えていて、これにはおはるも三冬も反対している。大治郎も「冗談ではない」と驚き、「魚の名なぞ、私は 困る」とも同じ年齢の妻と義母に言う。

小兵衛は思いあぐねて、千駄ヶ谷に住む旧友の松崎助右衛門(まつぎきすけえもん)を訪ねる。時期は梅雨 にはいりかけていて、夜になると冷えこむ日がつづき、それが原因か、小兵衛は下痢をおこしてしまう。これが事 件を知るきっかけになるのだから、作者のいつもながらの語り口のうまさに感心するしかない。

実は小兵衛は歩いていくつもりだった。鐘ケ淵から千駄ヶ谷までというのは相当な距離である。今日なら東 武伊勢崎線で浅草に出て、都営浅草線で浅草橋まで行き、そこで総武線に乗り換えるということになる。だが、小 兵衛は健脚だし、小兵衛より若い弥七などは女房が料理屋を営む四谷の家から鐘ケ淵の隠宅まで一日二往復するこ ともあった。

小兵衛は松崎助右衛門に初孫の名前について相談するつもりだった。妻のお貞が息子を産んだときも、大治 郎という名前にしようと思うがと助右衛門に判断をあおいでいる。助右衛門が言下に賛成したので、大治郎に決まっ たといういきさつがあった。

だが、助右衛門は駿河台の兄の屋敷へ泊りがけで出かけていて、小兵衛は空しく帰る。季節は初夏で、助右 衛門の家の庭では松蝉(まつぜみ)が鳴いていて、椎の大木が淡黄色の細かい花をつけている。

初孫の名はなかなか決まらない。その間に小兵衛は金貸し幸右衛門の遺金千四百両を狙った賊を撃退する。 この事件が解決したあと、松崎助右衛門が鐘ケ淵に訪ねてきて、大治郎が小太郎と名づけたいと言っているのを小 兵衛から聞いて、一も二もなく賛意を表する。

第三話は三冬が主役を演じている。大治郎と夫婦になったとき、三冬は「男装の女武道」であったが、あれ から二年たって、おはると同年の二十四歳になり、濃い眉、切長の両眼も涼しげな童顔でありながら、人妻の「隠 そうとしても隠しきれぬ……」色気が素顔にも姿にもただよっている。

おはるとは対照的であるが、どちらも男にとってはよき伴侶(はんりよ)だろう。小兵衛も大治郎もまこと に魅力的な女を妻にしたのである。この二組は世のつねならぬ夫婦であるが、『剣客商売』のシリーズを読んでい るかぎりでは、どちらも似合いのカツプルに思われる。

『勝負』の七編を書かれたころの作者は元気だった。年譜を見ると、昭和五十四年(1979年)の一月号から十 月号まで「小説新潮」に連載されて、十一月に単行本になっている。池波さんが五十六歳のときで、『剣客商売』 のほかに、『鬼平犯科帳』を「オール読物」の一月号から十二月号まで、『仕掛人.藤枝梅安梅安針供養(はりく よう)』を「小説現代」二月号〜七月号に連載されている。

さらに「毎日新聞」の日曜版には二月から一年問、『日曜日の万年筆』を連載し、「太陽」には『よい匂い のする一夜』を二年にわたって毎号書かれている。『日曜日の万年筆』も『よい匂いのする一夜』池波さんならで はの素敵なエッセー集である。

このころ、私はすでに池波正太郎の愛読者になっていたから、この『勝負』の一編一編を「小説新潮」で読 んだ。それが救いになった。困っているとき、悩んでいるとき、池波さんの小説はこころを慰めてくれたのである。 池波さんを日本橋からお茶の水まで乗せたというタクシーの運転手も『剣客商売』や『鬼平犯科帳』、そして『食 卓の情景』や『よい匂いのする一夜』に慰めを見出し、きっと力づけられたのにちがいない。

(平成六年四月、作家)

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