「剣客商売」新妻五月三日の早朝、「小説現代」のN氏から電話がかかってきた。池波正太郎先生が亡くなられたという。 まさかとは思わなかった。池波さんの病気が重いというのは本当だったのだ。

その一週聞ほど前に、池波さんに可愛がられた編集者から、先生が悪いということを聞いていた。

連休にはいって、することもなく、私はまた『鬼平犯科帳』を読みかえしていた。読みおわったら、 『剣客商売』にとりかかろうと思っていた。

四月末から五月はじめにかけての連休や年末年始にこの二つのシリーズと『仕掛人・藤枝梅安』を私はい つも読んでいる。その理由がようやくわかりかけてきたところだった。その時期は疲れがたまって、何をする 気にもならず、その疲れを癒(いや)すために、池波正太郎の作品を読んだのである。この三つのシリーズに 少くとも私は力づけられ励まされてきた。

正直のところ、池波さんは私などより長生きされると信じていた。秋山小兵衛のように九十三歳まで生 きられると思っていた。

それで、『剣客商売』の六冊目にあたる『新妻』の解説を書くのにとまどっている。『新妻』に収められ た七編が書かれた昭和五十年当時、作者は元気そのものだった。その作者が書く秋山小兵衛も鬼平こと長谷川 平蔵宣以(のぶため)も元気そのもので、病気をするといっても、風邪をひくか、食べすぎて腹をこわすか、 そんな程度だったのである。

鬼平も秋山小兵衛も、池波さんが食べたものを食べていた。それらの食べものはまた池波さんが料理でき るものだった。池波さんはこの二人を通して、そして梅安を通して、自分を語っていたのだ。

鬼平も小兵衛もときどき死について語っている。池波さんもまたエッセーで死を語った。しかし、三人に とって死は遠い先にあるように思われた。それだけに、池波さんの死は早すぎたのである。

『新妻』は実は『剣客商売』のなかでも、私の一番好きな一冊である。秋山大治郎と佐々木三冬の結婚を 待っていた、その読者の、私は一人だった。

『剣客商売』の一話一話が待たれた理由の一つは、大治郎と三冬がいつ結婚するかということにあった。作 者も二人の恋の推移を楽しんで書いていたふしが見える。

父親である小兵衡や田沼意次はいかにも世なれた人物だが、大治郎と三冬は剣一筋に生きてきた、世問を 知らぬ、微笑(ほほえ)ましいほどに初心(うぶ)なカップルである。その作者はといえば、食卓の情景ばかり か男女の機微にも通じた小説家である。

とりわけ佐々木三冬は池波さんの小説に登場する女のなかでは珍しい存在だ。たいてい「凝脂(ぎょうし) のみなぎった」女が多いのであるが、三冬は彼女たちとも、また小兵衛の妻、おはるとも対照的で、可憐(か れん)で凛々(りり)しい。

けれども、三冬が登場する一話ごとに、彼女は少しずつ変っている。「品川お匙(さじ)屋敷」では、生 母の実家、和泉屋に颯爽と現われた三冬は「例のごとき若衆髭(わかしゅわげ)の男装で、紅藤色(べにふじ いろ)の小袖(こそで)に茶宇縞(ちゃうじま)の袴。四つ目結(ゆい)の紋をつけた黒縮緬(くろちりめん) の羽織。細身の大小を腰に、絹緒の草履という姿(いでたち)」である。

まさに「女武芸者」であるが、三冬が男か女かわからぬようなおもいをしていた伯父の和泉屋吉右衛門は 彼女に若い女を感じる。前よりもきれいになったと吉右衛門は看(み)て、三冬の恋を知る。

いつもの三冬なら、書物問屋である伯父の家を訪れると、夕飯のさいそくをするのだが、根岸の寮(別荘) で留守居をしている老僕(ろうぼく)の嘉助(かすけ)が淋しがっていると聞いて、上野山下から車坂の通りに 出て、切り立った上野の山を左に見ながら、奥州街道へつらなる往還をすすみ、坂本二丁目と三丁目の境の 小道を左に曲った。

そのあたりはかつて三冬が無頼の剣客、浅田虎次郎一味に襲われ、投網(とあみ)を投げかけられ、危機 一髪のところを秋山小兵衛に救われた場所である。

三冬はそのころを思い出して、全身に熱い血が駆けめぐるのをおぼえる。あのことがなければ、秋山小兵 衛を知ることもなく、ひいては大治郎と知り合うこともなかったからだ。けれども、その熱いおもいを打明ける すべを彼女は知らない。小兵衛に言わせれば、「大治郎も三冬どのも、二人そろって朴念仁(ぼくねんじん) ゆえ……」なのである。

「鷲鼻の武士」では、草雲雀(くさひばり)が透き通った可憐な声で鳴いていて、小兵衛の隠宅の庭の向う では葦の群れがかすかにそよいでいたのに、佐々木三冬が根岸の寮に向かうときは、夕風が冷え冷えと吹き流 されていて、寺の塀(へい)のう内に見える柿の木の実も色づいている。池波さんはこのように、たった一行 か二行で季節を語ってきた。

「品川お匙屋敷」では大治郎と三冬が小兵衛の力を借りることなく、力を合わせて事件を解決する。といっ ても、三冬はとらわれの身となり、大治郎が助けにいくラヴ・ストーリーだ。

こうして、その年の十一月、二人の朴念仁はめでたく結婚する。浅草橋場(はしば)の不二楼(ふじろう) で簡素に行われた婚礼では、「白無垢の小袖に、同じ打掛。綿帽子をかぶった三冬の花嫁姿は、意次にとって、 はじめて見るわがむすめの女の姿であった」

男装の麗人だった三冬の女の姿を見るのは、小兵衛や大治郎にとってもはじめてだったので、この一編を 読みおわると、はらはらさせる筋立てでありながら、くすくす笑いだしたくなる。ここで恋物語は終りを告げる のであるが、「川越中納言」で、作者はおはるに一言わせている。「奇妙な夫婦ができあがったものだねえ、先生」

「川越中納言」はじつに淫靡(いんび)な事件の物語である。これだけのストーリーだったら顔をそむけたく なるところだが、作者は新妻三冬の滑稽(こっけい)なところを巧みに描いていて、それが息抜きになっている。 グロテスクとユーモアをまじえた一編で、やはり池波さんは無類のストーリーテラーだったと思わないわけに いかない。

隠宅へ呼びだされた三冬が小兵衛に「一肌(ひとはだ)ぬいでいただきたいのじゃ」と言われて、「何を 勘ちがいしたものか、顔を赤らめて、うつ向いて」しまうシーンなど、小兵衛と三冬のやりとりだから、おもし ろい。三冬なら「本当に、肌をぬぐ」と思うからである。

『新妻』に収められた七編もカ作ぞろいで、一編一編が時代小説の楽しさを堪能(たんのう)させてくれる。 池波さんが最も快調だったころである。

『池波正太郎の銀座日記II』に以下のような記述があった。
「外神田(そとかんだ)の〔花ぶさ〕へ行き歌舞伎の中村又五郎さんと食事をする。二人とも、あまり酒をやら ぬほうだが、いまの私は又五郎さんよりも、のめなくなってしまった。
 又五郎さんの秋山小兵衛、加藤剛君の秋山大治郎で〔剣客商売〕を帝劇でやったのは昭和五十年だから、もう 十一年たってしまったのだ。当時の又五郎さんはいまの私より若かったはずである」

これは昭和六十一年の夏の日記である。中村又五郎氏はいうまでもなく秋山小兵衛のモデルだ。
『銀座日記II』は昭和六十年の秋からはじまっていて、池波さんはじつにたくさんの映画を観ておられる。映画 と芝居と食べものの日記になっている。「〔煉瓦亭〕へ行き、ロース・カツレツ。ちょっと物足りない感じだが、 これくらいにしておくのがちょうどよいのだ」と食欲も旺盛である。

両切りのラッキーストライク一缶(ひとかん)買うなどという記述もあった。池波さんは煙草(たばこ) が好きで、いろんな煙草を喫(す)っておられた。お目にかかるたびに、煙草がちがっている。もっとも、一つ に決めないのは、煙草の味がなくなったからだとあるエッセーに書いておられる。酒はあまり飲まれなかった けれども、若いころはいくら飲んでも平気だった。

『新妻』の「金貸し幸右衛門」では、秋山小兵衛は六十三歳の春を迎え、おはるは二十三歳。池波さんがこれ を書かれたとき、小兵衛よりほぼ十歳年下だった。その十年後の池波さんは『銀座日記II』を読むかぎり、六十 三歳の小兵衛のように元気である。それから四年後に亡くなられるとは思いもしないことであった。

六十七歳という年齢はけっして若くはないが、まだまだ書ける時期である。池波さんは『藤枝梅安』と『鬼 平犯科帳』の連載をあとわずか残すばかりだったし、『原っぱ』の続編『居酒屋〔B・O・F〕』の連載をはじめら れたばかりで、死を迎えられた。読者にとっては残念というしかない。

池波さんが亡くなられてから、女性のなかに池波ファンが意外に多いのを知って嬉しくなった。ある若い女 性は『食卓の情景』を読んで、信州まで蕎麦を食べに出かけたし、ある女性はまた『鬼平犯科帳』の熱烈なファン であり、それで、TVドラマになったこのシリーズの中村吉右衛門が好きになったという。二人ともごくごく普通 の女性である。ただ、そのうちの一人は詩人の白石公子さんであるが。

池波正太郎先生のお通夜のあと、私は友人と山の上ホテルに行った。山の上ホテルは池波さんが愛された ホテルであり、夏休みはここで過ごされた。山の上ホテルの天ぷら屋はもう店を閉めるところだったが、私たちを 快く迎えてくれた。ここで精進落しをしたかったのである。

葬儀では中村又五郎氏が弔辞を読まれ、山口瞳氏は弔辞で、池波さんは旅をした人であり、「江戸に長逗留 (とうりゅう)された」と言われた。その「長逗留」の日記が『剣客商売』や『鬼平犯科帳』、『仕掛人・藤枝 梅安』になったように思われてならない。

(平成二年八月、作家)

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