「剣客商売」白い鬼『剣客商売』にはときに気味の悪い怪物が登場する。「妖怪・小雨坊(こさめぼう)」はその一編だろうし。本書の表題作「白い鬼」恐ろしい悪を描いてる。小雨坊の事件は安永八年(1779)であり白い鬼である金子伊太郎(いたろう)が秋山小兵衛の「手段(てだて)をえらばぬ」剣によって捕えられたのは翌安永九年の二月である。

小雨坊は烏山(からすやま)石燕(せきえん)の絵本『百鬼夜行』に出てくる小雨坊にそっくりの異相の持主だが、金子伊太郎は「総髪をきれいに梳(す)きあげ、透きとおるような色白の顔に細く濃い眉(まゆ)、隆(たか)い鼻すじ、切長の両眼(りょうめ)」の美男である。彼が恐るべき異常殺人鬼だとは誰も思わない。小雨坊と金子伊太郎に共通しているのは、恐しいほどの剣の遣い手であることだ。

このような悪を描くとき、作者の筆はいつそう冴(さ)えて、しかも力がこもってくる。渾身の力をふりしぼって悪を書くとき、小兵衛の小さな躰がしだいに大きく見えてくる。

金子伊太郎の行方を追うのは「まるで、雲をつかむような」探索であるが、小兵衛は食べものから伊太郎の隠れ家を突きとめる。小兵衛が信頼する四谷・伝馬町の御用聞き、弥七の下働きをつとめる密偵(みつてい)・傘屋(かさや)の徳次郎が白い鬼を尾行するのだ。

『剣客商売』は食べものの描写が魅力である。金子伊太郎が行きつけの、芝神明宮・門前にある〔上州屋吉兵衛(じょうしゅうやきちべえ)〕という蕎麦屋のくろい太打ちの蕎麦は、「白い鬼」を読んでいると、食べてみたくなってくる。

上州屋の蕎麦は生姜の汁だけで食べる。ほかに薬味はいっさいつかわぬ「上州ふう」なのだ。
「上州屋の酒は燗(かん)をしない。今戸焼の茶碗(ちゃわん)になみなみと冷酒(ひやざけ)をくんで出す。
 蕎麦は、朱塗りの箱の蓋(ふた)のような容物(いれもの)へ、くろい太打ちの冷たい蕎麦をこんもりと盛って来る。
 汁(つゆ)のかげんがどうなっているのか知れぬが、秋山小兵衛にいわせると、
『わずかに味噌(みそ)が混(まじ)っている……』
 そうな。
 その汁へ、生姜の搾り汁をたらしこむ。
『妙に、うまい』
 のである」

上に引用した文章にたとえ署名がなくても、池波正太郎先生だとわかるだろう。これはもう池波先生の世 界である。

こういう店に秋山小兵衛も行けば、金子伊太郎も訪れる。「善悪の境は紙一重(ひとえ)じゃもの」(「た のまれ男」)という小兵衛のことばが思い出される。

いまさらいうまでもないが、『剣客商売』もまた食べものが一話一話に魅力を添えている。シリーズの第 一話「女武芸者」は、秋山大治郎が根深汁(ねぎの味噌汁)と大根の漬物だけで食事をしているシーンからはじまる。

道場をかまえたばかりで、弟子が一人もいない大治郎は朝も夕も根深汁に大根の漬物、それに麦飯である が、「根深汁で飯を食べはじめた彼の両眼は童児のごとく無邪気なものであって、ふとやかな鼻はたのしげに汁 のにおいを嗅ぎ、厚い唇(くち)はたきあがったばかりの麦飯をうけいれることに専念しきっているかのよう」 である。

空腹で、健康であれば、味噌汁と漬物だけで私たちはご飯をおいしく食べることができる。大治郎はじつ にうまそうに食べているし、事実うまいのである。ファースト・フードや冷凍食品に慣らされた私たちには、 大治郎のこの「食卓の情景」は新鮮に感じられる。

本書の「三冬の縁談」でも、女武芸者の佐々木三冬は大治郎の家で「茄子の角切に、新牛蒡のささがきを 入れた熱い味噌汁で、飯を三杯も食べて」しまう。御用聞きの弥七は「暗殺」では大治郎や弟子の飯田粂太郎 とともに、飯を「四杯」も食べている。

「三冬さまの胃の腋(ふ)は、底なしでございます」と粂太郎少年は大治郎に告げる。しかし、よく食べる のは、三冬だけではない、秋山ファミリーはじつによく食べる。

食べものが出てくる小説は意外に少ない。食べものによって読ませる小説となると、ほとんどないだろう。 池波先生は「小説の中の食欲」(『私の歳月」所収、講談社文庫)というエッセーでつぎのように書いておられる。
「私が書いている時代小説に、登場する人びとの酒食のありさまがよく出てくるのは、一つには、季節感を出し たいからなのである。
 いまの食物は、夏も冬もあったものではないけれど、、戦前までは、四季それぞれの魚介や野菜のみを私ども は口にしていたのであって、冬の最中(さなか)に胡瓜(きうり)や茄子やトマトを食べたおぼえは一度もない」

また、「人間はね、高踏的じゃないんだ」(同文庫所収)というインタビューで先生は語っておられる。
「人間の生活が小説に出てくる以上、食べものというのは不可欠のものだからね」
「人間の生活が、よっぽど高踏的だと思うことが間違いなんですよ」
「人問はね、衣食住とそれからセツクスが順調に満たされたら文句ないですよ。これはもう人間の最大理想でね。 ぜいたくということじゃなくて、貧乏でも。人間の生活なんて、もうそれに尽きる」

『剣客商売』のみならず『鬼平犯科帳』など先生の小説は食べものによって季節感が色濃く出ている。『剣客 商売』で江戸の四季を知ることができる。食べもののほかにも、池波先生は季節を知らせる風景を物語のなかに 書きこんでゆく。

「春から夏へ移る、ほんのわずかの間だが、江戸の町は、一年のうちでもっとも快適な季節を迎える。日射 (ひざ)しはかなり強(きつ)くなり、歩いていると汗ばむほどだが、その汗をぶきはらう薫風(くんぷう)に は、まだ、いささかの冷気がふくまれてい、それがたとえようもなく心地よいのだ」(「暗殺」)

本書のもう一つの楽しみは、大治郎と三冬の恋がしずかに進行していることである。三冬はいつのまにか 大治郎を呼ぶのに、「大治郎どの」から「大治郎さま」に変っている。

二人の関係を見まもる小兵衛。小兵衛と大治郎との関係は、世なれた父親と世なれぬ息子のそれで、そこ におのずからユーモアがにじみでてくる。また、この親子の関係が『剣客商売』の一話一話に深い奥行をあたえ ている。小兵衛は融通無碍(ゆうずうむげ)であり、大治郎はあくまでも謹厳実直である。といっても、そこは 青年らしく純粋な謹厳実直であって、つまり初心(うぶ)なのである。

このような若者に作者は同じほどに初心な佐々木三冬を配した。こころにくい組合わせである。そして、 この二人のこころを確かめるような事件がもちあがった。それが「三冬の縁談」である。

「白い鬼」は恐しい殺人鬼を追う息づまる一編であるが、「三冬の縁談」は一転して軽いタッチの、梅雨の 晴れ間のような、ほほえましい物語だ。大治郎と三冬の会話、大治郎と小兵衛の会話はユーモアにあふれていて、 この三人に寄せる作者のおもいが感じられる。

『剣客商売』は父と息子の物語でもある。父が老い、息子が成長していく姿を描いた小説である。第一話か らこの「三冬の縁談」までに秋山大治郎はずいぶん成長した。その間、三年ほどしか経過していない。小兵衛は かくしゃくとしていて、腹をこわし十日も寝たきりでいても、鮒飯(ふなめし)を三杯も食べると、翌朝、俄然、 生気がよみがえってくるほどである。

小兵衛はいつもとちがう大治郎に業を煮やして一喝する。
「好きなら好きといえ。惚れたのなら惚れたといえ。あの女武道が、お前は、それほど好きだったのか……ふう ん……それほどとは、すこしも気づかなんだわえ。ふうん、そうか。そうだったのか……」
 これは父親の声である。はじめは口調がきつくても、しだいにおだやかになっていく。そして、「大治郎、声もなし」

三冬に縁談がもちあがり、大治郎はなすすべもなく元気をなくしてしまう。三冬は縁談の相手と試合して 負ければ、嫁がなければならない。三冬が自分よりも強い相手と結婚するというのは、彼女の父、田沼意次との 約束である。こういう約束がなければ、小兵衛が三冬を知ることもなかっただろう。三冬の縁談がきっかけになっ て、小兵衛が彼女を助けるというのが、『剣客商売』のそもそもの発端だった。

けれども、こんどの相手は、大治郎の見るところ、とても勝てそうもない。三冬は「なれど、負けませぬ!!」 と力んで言う。大治郎もおもわず「大丈夫」と答える。ここで二人がすでに愛しあっていることがわかる。

作者は悪女や妖艶(ようえん)な女を描く第一人者である。西村屋お小夜(さよ)などはその一人であるが、 佐々木三冬だけは例外で、『剣客商売』のなかで「薫風」のような存在である。すっきりとした女である。

「例によって三冬は、若衆髭(わかしゅわげ)」に御納戸色(おなんどいろ)の小袖(こそで)、茶の袴(は かま)。四っ目結(ゆい)の一つ紋をつけた黒縮緬(くろちりめん)の羽織。細身の大小という美しい男装である」 (「西村屋お小夜」)

「大治郎と稽古をするつもりで、三冬は愛用の稽古着と袴を布につつみ、これを左の小脇に抱え、右に雨傘。 袴を短めにつけ、白い素足に黒漆ぬりの足駄をはいた男装の佐々木三冬を、道行く人びとのだれもが振り向いて 見ずにはいられない」(「三冬の縁談」)

三冬を描写する作者の筆はてきぱきとしていて、すがすがしい印象をあたえる。三冬を描くのにふさわしい 文体になっていて、読んでいて、耳にこころよい。

『白い鬼』を読んだのは、これでなんどめだろう。これを読めば、つぎの『新妻』を読みたくなる。『剣客商 売』もまたそういう癖がついてしまうシリーズである。

(平成元年八月、作家)

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