「剣客商売」天魔『剣客商売』も四冊目になると、舌なめずりするような気持で読みはじめる。文庫ではじめて読む人にとっ ては二年ぶりの『剣客商売』だから、この『天魔』のぺージを開く前に、一冊目から三冊目までの二十一話をお さらいのつもりで再読するといいかもしれない。

そのおさらいは楽しい経験になるはずだ。二十一話のなかでおぼえているのはごく僅(わず)かで、おお かたはきれいに忘れていることに気がつくだろう。一話一話に季節と土地がくっきりと刻みこまれ、旨(うま) そうな食べものが出てきて、しかも事件があり、秋山ファミリーの活躍がある。そして、もしかしたら秋山小兵 衛ははじめから佐々木三冬を息子・大治郎の嫁にとひそかに考えていたのではないかと勝手な想像を働かせる。

こうして、四冊目の『天魔』を読み始めると、一日一話ではとても我慢できないで、一夜のうちに読み終 えてしまう。それは『剣客商売』や『辻斬り』や『陽炎の男』ですでに経験ずみだ。

『天魔』では、小兵衛の妻、おはるが「化けものですよ」と言った小雨坊に火をつけられて焼失した鐘ケ淵 の隠宅も新築なって、小兵衛おはるの夫婦は橋場の不二楼(ふじろう)の離れから、四谷の弥七が「以前のまん まの間取りでございますねえ」と言う、木の香も鮮烈な新居に移っている。 四十歳もちがう小兵衛とおはるの 関係は相変らずで、とぽけていて、春風駘蕩としている。この二人と大治郎の関係も親密で、父・小兵衛に対す る大治郎の理解も深まっている。小兵衡がむかしから昵懇(じつこん)の老剣客、横川彦五郎を父にかわつて見 舞う「箱根細工」では、大治郎には父の姿が見えている。

「老いてからの父は何事にも融通が、ききすぎて、自由自在の境地にある、といえばきこえがよいけれども、 清と濁の境をこだわりもなく泳ぎまわり、大治郎から見ると、小兵衛自身がいう『古狸』そのものにしかおもえ ぬこともある」

共に辻平右衛門の門人だった彦五郎は、大治郎から、小兵衛が若いおはると夫婦同様の暮しをしていると 聞いて瞠目(どうもく)した。辻平右衛門のところにいたころの小兵衛は酒も飲まないし、女にも興味がなく、 ただひたすらに剣の道に没頭しでいたのである。若い日の小兵衛は『剣客商売』番外編の『黒白』(新潮文庫) にくわしい。

小兵衛、大治郎の関係は微妙に変化してきている。父と息子の関係がいっそう緊密になったように思われ る。小兵衛は愛弟子の落合孫六に金ずくの〔なれ合い試合〕を許しても(「雷神」)、大治郎に嘘をつくことは なかった。「実は、な。このごろのおれは剣術より女のほうが好きになって……」(女武芸者)、剣客商売所収) と平気で息子に語った小兵衛である。

大治郎とおはるの関係も微笑(ほほえ)ましいものになっている。大治郎もはじめは「おはる」と呼んで いるが、いつのまにか「母上」になってしまった。それでも、ときについ、「おはる……いや、母上。ついでに 私を、舟で大川をわたして下さい」といったようなこともある。彦五郎を見舞った帰りには、大治郎は自分より も若い母親に箱根細工の裁縫箱を買うのである。この息子もまた父に似て、このようによく気がつく。


『天魔』はとくにユーモアの味がたっぷりあるようだ。「雷神」も「夫婦浪人」も「約束金二十両」もユーモラ スな物語だし、「鰻坊主」は毛饅頭(けまんじゅう)問答が面自い。「約束金二十両」のおもよは、栄達や名利 (みょうり)と隔絶した場所に生きてきた剣術の名手、平内太兵衛に言わせると、「物干竿のような小娘」であ る。「鰻坊主」の旅僧は「うるめ鰯の目刺のような坊主」だ。

しかし、表題作品の「天魔」には、やさしげな若者の姿をした「怪物」が登場する。あの小雨坊のような 男である。『剣客商売』にも『辻斬り』にも『陽炎の男』、にも、笹目千代太郎のような恐しい悪が登場した。 作品名をあげれば、「剣の誓約」、「妖怪・小雨坊」、「婚礼の夜」である。

こうした作品の悪人たちは秋山小兵衛の強さに見合うほどに強い。悪人が強ければ、小兵衛の強さがいっ そうひきたつ。小兵衛自身、そのような悪がこの世にあることを信じている。小兵衛は大治郎に言う。

「笹目千代太郎は外見(そとみ)はやさしげな若者じゃが、中味は怪物よ。ああした男が、まれに出て来る ところが人間の不思議さなのだ。千代太郎の両親は尋常な人たちであるのに、な」

また、剣友の牛堀九万之助に言う。
「人の世には、はかり知れぬことがあるものじゃよ、牛堀さん。もともと、人間なんてものが、わけのわから ぬものさ」
 小兵衛のこの眩(つぶや)きは『鬼平犯科帳』の長谷川平蔵や『仕掛人・藤枝梅安』の梅安の感慨でもあろ う。この三人はまた、善と悪が紙一重だとも感じている。

「人の世には、はかり知れぬことがある」と思うのは、小兵衛ひとりではない。私たちもまた『剣客商売』 のシリーズを読みながら、そう思う。「はかり知れぬことがある」から、秋山父子(おやこ)はつぎつぎに事件 に巻きこまれてゆく。作者もそのことを「箱根細工」に書いている。「大治郎は父・小兵衛の旧友である横川彦 五郎を塔の沢に見舞い、一泊したのち、すぐさま江戸へ引き返すつもりであった。

その行手に、おもいもかけぬ事件が待ちかまえていて、自分を巻きこむことになろうとは、夢にもおもわ なかったのである」
 これは古典的なミステリーの書き出しでもある、『辻斬り』の「老虎」でも似たような文章を見つけることが できる。
「この日、このとき、秋山大治郎が父の家を訪れなかったら、彼は久しく会わぬなつかしい人に、おもいがけな く出合うこともなかったろうし、ひいては、その人にかかわる事件に巻きこまれることもなかったろう」

大治郎も小兵衛も偶然に事件に巻きこまれてゆくように見える。しかし、父の家を訪ねるのは必然的な行 為であり、塔の沢に父の旧友を見舞うのも当然の行動である。作者はここでミステリーの古典的な手法を復活さ せている。
 事件がつまらなければ、この手法は失敗だろう。しかし、作者は私たちの予想を上まわる事件を描いて、私た ちを堪能させるのである。

「天魔」では、小兵衛が「白髪(しらが)頭を抱えこんで」しまうほどの怪物が出てきて、私たちは手に汗 をにぎる。それでも、怪物・千代太郎との決闘を前にして、麻布四ノ橋を南へ行ったところの氷川明神の側(そ ば)にある梅の茶屋で、秋山父子はゆっくりと茶を飲み、この茶店の名物、鳩饅頭(はとまんじゆう)をつまむ ゆとりもある。

いかなる怪物であろうと、私たちには秋山父子がかならず勝つことはわかっている。そうでなければ、こ のシリーズはつづかないのだから、途中のぺージを飛ばして、結末を急いで読むこともない。ただ、私たちは勝 つことはわかっていても、どのようにして勝つかに興味がある。いわば、これは小説の詰(つめ)である。そこ のところがよくなければ、私たちは納得できないのであるが、作者は一話一話にふさわしい結未を用意して、私 たちを満足させている。「天魔」の結末など見事なものだ。この結末にはまた、大治郎が父に一歩近づいたとい う、息子の成長もうかがわれた。

『剣客商売』は音読してもいいのではないかと思ってきた。それは、作者が劇作家だったからということで はない。ページの字面(じづら)がとてもきれいなのである。漢字とひらがなの配分が目にこころよいのだ。ル ビの使い方がじつに親切で、たとえば「秋山小兵衛は昼餉(ひるげ)をすませてから、前日に〔不二楼(ふじろ う)〕へたのみ、届けてもらった柄樽(えだる)の酒を持ち」といったぐあいに、優雅な感じがする。

作者の代表的な短編である「上意討ち」と「恋文」がフランキー堺さんによるカセットテープになったの で、この二編を聴いてみた。池波正太郎の小説は耳で聴くのもいいものだと思った。人情噺を聴くような楽しみ を味わったが、フランキー堺さんの語り口のせいか、モダーンな感じもした。

もともと、この作者の小説には古風なダンディズムがあって、おそらくそれがモダーンな印象をあたえる のだろう。秋山小兵衛にしても、長谷川平蔵にしても藤枝梅安にしてもダンディである。『鬼平犯科帳』が古今 亭志ん朝でカセットテープになったから、それも聴いてみたいと思っている。

「恋文」と「上意討ち」は深夜、自室にこもって、ブランデーをなめながら聴いたのだった。薄暗くした部 屋でフランキー堺さんの声を聴いていると、小説の情景を思いうかべることができた。車のなかで聴くのもい いだろう。

『剣客商売』も近いうちにカセツトテープが売り出されるのではないかと思っている。単行本になり、文庫 になり、テープになるというのは、名作であることの証明である。

さて、『天魔』では、大治郎と佐々木三冬の恋がひそかに進行している。それがまた『天魔』の八話にい ろどりを添えているようだ。この二人がこれからどうなるかという興味で、五冊目の『白い鬼』が待ち遠しくな る。ほんとうに面白いシリーズだ。

(昭和六十三年八月、作家)

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