ハリエット・ヴェーン

別冊宝島63「ミステリーの友(ミステリー・グルメになるためのメニュー)」より

セイヤーズに学ぶ女性の自立(浅羽莢子)

ハリエット・ヴェーンの一生は、時折り殺人事件に巻き込まれることを除けば比較的普通だ。普通でないのはその一貫した自立心である。セイヤーズの作品の探偵役はピーター・ウィムジイ卿という貴族の次男坊なのだが、そのピーターが傍聴した裁判で、同棲相手を殺害したかどで裁かれていたのがこのハリエットだ。ミステリー作家でありボヘミアンであるばかりか、男と同棲した挙句に折角申し込まれた結婚を侮辱と考えて蹴ってしまうヒロインというのは、おそらく当時としては考えられなかったタイプであろう。

結婚の申し込みを侮辱と考えた理由だが、そもそもハリエットが同棲に踏み切ったのは結婚を旧弊なしきたりとする男の考えに同意したからだ。それが同棲三年目に相手に結婚を切り出され、喜んで飛びつくだろう、という侮りを読み取り、信念に基づいていたはずの三年間は妻としての試験期間に過ぎなかったのかと屈辱を覚えさせられたのだ。

ハリエットに一目惚れしたピーターの活躍で無実は証明されるが、ハリエットはそのプロポーズをも蹴ってしまう。そして五年間、ピーターは申し込み続け、ハリエットは断り続けることになる。この辺もまた普通のヒロインと違うところで、救われた命の代償としての結婚は不幸以外の何ものでもないことをセイヤーズは強調する。ハリエットがプロポーズにうなづくことがあるとすれば、それはピーターを恩人として――義理ある相手として――ではなく、好ましい一人の男性として見ることができるようになった時なのだ。

1930年に『毒を食らわば』で出会った二人が真剣に互いに対する気持ちをつきつめることになるのは1935年発表の『大学祭の夜』においてである。<大学祭>というよりは<同窓祭>の名の方が適切な催しのために、母校である女子大を訪れたハリエットはそこが悪質な悪戯の的になっているのを知る。果たして犯人は抑圧された性の捌け口を求める独身女性教授の一人か、それとも女の進出を潔しとしない外部の人間か? 恩師に頼まれてハリエットは調査に乗り出す。『大学祭の夜』において女性問題は学問、職業、結婚、家庭等、さまざまな側面から論じられる。学生時代に常に首席クラスだった友人が夫を手伝っての畑仕事で見る影もなくなっているのを見て、ハリエットは「何という頭脳の浪費か」と思う。それがインテリの思い上がりではないかと反省する一方で、何とかなると思って妥協して結婚した結果である可能性を考える。女にとって理想の結婚、理想の夫とはと考えさせられ、作家としての自分が優れた現代英語の一文をものした時の喜びを家庭を持つ喜びと対比させ、どちらがどう劣るわけでもないのを再認識する。

調査はハリエット一人の手に負えず、ピーターが非常召集される。生命の危険を感じ出したハリエットにピーターは簡単な護身術を手ほどきし、「首を締められた時の用心に」と革の首輪をプレゼントする。これまた普通の小説なら男は愛する女を身を以って護ろうとし、女はその男らしさに陥落する、というところだが、ピーターはハリエットの良識と頭脳を信頼し、自分で自分の身を護らせることによって、かつて無実を証明することによってすくってやった――そしてハリエットが素直になれない最大の理由である――恩をご破産にしたのだ。それがわからないハリエットではなく、初めて真に対等の立場からピーターに接することができるようになるのである。

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