隅の老人

「名探偵ベスト101」村上貴史 編(2004)より一部抜粋

ご自身が喫茶店で怪事件を知らせる新聞記事を読んでいることを想像してみてほしい。そこに、痩せこけ、禿げあがった頭に髪をわずかに残した老人がやってきて、その事件についてペラペラとまくしたてたら不快ではなかろうか。女性新聞記者ポリーは、そんな目に遭ったのである。ロンドンの行きつけの店、《ABCショップ》で。

その老人は、手にした紐に奇妙な結び目をいくつも作りながら、シベリアの大富豪が脅迫者を殺したとして告発されつつ、それを否定する証拠により解決が行き詰まってしまった事件について、新聞が報じる以上の詳細を語り、さらに事件に関する手紙の写しを取りだしてみせる始末。そして、最後には警察が見抜けないでいる真相までポリーに語って聞かせるのだ。ポリーも変な人物に出くわしてしまったものである。しかしながら、ポリーが関心を持つ事件についてその変な老人が語って聴かせる日々は、その後も続いた。おそらく、新聞記者である彼女の心が刺激されたのだろう。なにしろ老人の話に夢中になったポリーは恋人との約束を忘れるほどなのだから。

警察が悩んでいる難事件の真相をいとも簡単に紹介し、時には犯人の顔写真までポリーに残して去っていく隅の老人は、ヘイクラフトやクイーンに安楽椅子探偵の嚆矢と評された。だが、一読すれば明らかなように、事件について語る者の言葉だけを手掛かりに真相を得る《安楽椅子探偵》ものの醍醐味は、ここにはない。老人はポリーに話しかける前に、すべての調査と推理を終えている――安楽椅子に腰を下ろす前に、彼は謎解きに必要なすべてを完了しているのだ。とはいえ、それは老人の推理の妙味を削ぐものでは全くない。彼が《ABCショップ》の《安楽椅子》のなかで、ポリー相手に披露してみせる推理は、結局のところ実に魅力的なのだ。ミステリ史にその足跡を記すに十分値するほど。

そうした老人の冴えに対して、ポリーは凡庸である。魅力的な女性という役割を与えられているだけで、ワトスン役すら果たしていない。その彼女が、名探偵の示したヒントを咀嚼して読者に探偵の真意を伝えるというワトスンらしい役目を果たした唯一の例が「隅の老人最後の事件」である。ここではじめてポリーは頭を働かせるのだ。その時点では、残念ながらワトスン役として仕えるべきホームズは不在になっているのだけど。

さて、一度最後まで読み終えた後で、劈頭の「フェンチャーチ街の謎」の地の文だけを読み返して欲しい。その分量の少なさとともに、著者のニヤリとした笑顔が浮かんでくることだろう。

(村上貴史)

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