シャーロック・ホームズの誕生

「海外ミステリ・ガイド」仁賀克雄著(1987)より一部抜粋

「こちらワトスン博士です。この方がシャーロック・ホームズさんですよ」スタンフォードは私たちを引きあわしてくれた。 「はじめまして」相手は思いがけない強い力で私の手を握りしめながら、うちとけた様子で話しかけた。「あなたはアフガニスタンへ行ってこられたでしょう?」

『緋色の研究』(阿部知二訳)

ジョン・H・ワトスン博士とシャーロック・ホームズ初対面のシーンである。

アーサー・コナン・ドイル(1859〜1930)の創造した偉大なる名探偵シャーロック・ホームズは、1887年の「緋色の研究」で初めて世間にお目見えした。

ドイルはスコットランドのエディンバラの中流家庭に生まれ、王立の医学校を出て、ポーツマスで医師を開業した。あまりはやらぬ医師で、暇つぶしと家計の足しに小説を書き出した。怪奇小説や冒険小説を投稿しているうちに、ポオやガボリオのようなミステリを書こうと思いたった。そして医学校の恩師ジョセフ・ベル博士をモデルにホームズを創造し、長編「緋色の研究」を脱稿した。ところが、どこの出版社に持ち込んでもことわられ、やっとのことでウォード・ロック社が二十五ポンドで買い取ってくれ、それを1887年12月の「ビートンのクリスマス年鑑」に掲載してくれた。しかし反響はさっぱりなく、ドイルもがっかりして歴史小説に専念し、「ホームズ」のことはあきらめていた。ところが二年もたって、ひょっこりとアメリカの雑誌社がこの小説に目をつけ、次の作品を依頼してきた。ドイルは感激して「四つの署名」(1890)を力を込めて書きあげた。

これが評判になり、イギリスへもはねかえってきた。この成功を知ったイギリスの「ストランド・マガジン」の編集長ジョージ・ニウンズは、新しいホームズ・シリーズの連載を依頼にドイルを訪ねた。こうして1891年から一年間、十二作の短編が同誌に掲載され、その後「シャーロック・ホームズの冒険」として一冊にまとめられた。

人気は爆発的なものだった。ポオによって示唆されたミステリは、ドイルによってエンターテインメントの文学として、完全に独自の分野を築いた。「私」と「デュパン」の形式を模した「ワトスン博士」と「ホームズ」の探偵談は、一つのパターンとして踏襲された。

面白いことに、「冒険」の第一作「ボヘミアの醜聞」は、ポオの「盗まれた手紙」にヒントを得ている。かたや写真で、一方は手紙であるが、高貴の方の品物を隠してあるのを、探偵が機智を働かして取り戻す点は同じである。ドイルはさらにホームズの探偵談を十二編書いたが、この仕事が段々と重荷になってきた。

「シャーロック・ホームズの物語の仕事の困難さは、どの話にも長編に通用しそうな明快で独創的な構想を要するところにあった。そんなにすらすら次から次へ出てくるものではない。とかく貧弱になり、足並みの乱れがちなものだ。私は以後金銭的圧力には絶対に屈しまい、自分のものにしうる限りのよいもの以外は決して書くまいと決心した」(「わが思い出と冒険」ドイル自伝・延原謙訳)

かくして、自己の良心に従ったドイルは、『ホームズの思い出』の「最後の事件」で、犯罪王モリアティ教授にホームズを抹殺させてしまった。 これを読んだホームズの愛読者は驚愕し、失望すると同時に、ドイルに激しい怒りをぶつけてきた。ドイルの家には「人でなし!」「ホームズを何故殺した!」「ホームズを生かせ!」といった愛読者の非難の投書が殺到し、ドイルが町を歩くと、「人殺し!」と腐った卵をぶつけられたこともあった。

ドイルは驚くと同時に感激した。かくもホームズを愛してくれるファンが大勢いるとは作家冥利に尽きる。それとも知らず、自分の都合でホームズを殺してしまったことは浅慮だったと、深く自らを恥じた。幸いなことに、「最後の事件」はホームズの失踪で終わり、ワトスン博士の必死の捜索にもかかわらず、死体は発見されていなかった。そこでドイルは、ホームズが死んだと見せかけてモリアティの残党の目を欺き、実は密かに生きて探偵を続けていたのだということにした。これが「空家の冒険」(1903)で、ホームズは九年ぶりにワトスン博士や読者の前に姿を現した。読者は熱狂してこれを迎えた。これを掲載した「ストランド」誌は増刷につぐ増刷だった。

ドイルは「緋色の研究」「四つの署名」「バスカーヴィルの犬」「恐怖の谷」の四冊の長編、「ホームズの冒険」「思い出」「帰還」「最後の挨拶」「事件簿」の五冊(五十六篇)の短編集を四十年にわたって書き、最後にこの名探偵を地方の農園に隠退させ、養蜂と読書の晩年を送らせた。

ドイルにはナイトの称号が贈られたが、彼自身はホームズものを自作のなかでは高く評価していなかった。むしろ歴史ロマン「勇者ジェラール」や「ホワイト・カンパニー」を代表作としていた。作者の思惑と読者の人気が一致しないのは珍しいことではない。人気というものは、創り出すものではなく、生まれるものなのだ。

ホームズが誕生して百年になるが、ホームズの熱狂的なファンは、各国でホームズ研究グループを作った。アメリカにはベイカー・ストリート・イレギュラーズという由緒ある団体があり、イギリスにはホームズ研究の本部がある。日本でも「日本シャーロック・ホームズ・クラブ」が生まれ、ファンが研究活動を続けている。「ホームズ学」は「シャーロキアナ」と呼ばれ、研究者は「シャーロキアン」である。現在でもホームズの研究書や模作は世界中で毎年出版されている。

どうしてこれほどまでにホームズが愛されるのかといえば、その作品が発端の不可思議性、中途のサスペンス、結末の意外性といった本格ミステリのパターンを創造した作品であり、加うるにプロットの巧みさ、独創的なトリック、ホームズとワトスンの人間的魅力、ヴィクトリア朝の雰囲気など、他の追随を許さないものがある。ミステリを語る場合には、必読の古典であり、その後生まれた名作に比べても遜色のない、永遠の価値を持っている。

ポオを生みの親としたミステリは、ここにドイルを育ての親として、着実にその根を広げていったのである。ホームズ作品のベスト5は、私見では、「赤髪連盟」「唇のねじれた男」「ソア橋の事件」「まだらの紐」「六つのナポレオン」である。

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