ミステリの面白さと楽しみかた

「海外ミステリ・ガイド」仁賀克雄著(1987)より一部抜粋

「この世に残された最後の男が、一人で部屋に座っていた。するとドアをノックする音がして…」というのは怪談である。アメリカ作家フレドリック・ブラウンのショート・ショートの冒頭だが、ノックをしたのが何ものなのか、ということが恐怖の焦点になっている。

これをSF仕立てにすれば、その続きは「ドアが開き、入ってきたのは、宇宙人だった」となる。ところが、「ドアが開き、入ってきたのは、この世に残された最後のだった」とすれば、ミステリになる。つまり文章上のレトリックでいけば、「最後の男」というのは「最後の人間」のことではないから、別に「最後の女」がいてもおかしくはない。そこに意外性がある。

「なんだ、詭弁じゃないか」というなかれ。これがミステリという特殊な小説の本質に付随した騙される楽しさでもあるのだ。その点を理解しなくてはミステリは面白くない。

あなたはどうしてミステリを読もうという気になったのか、考えてみたことがあるだろうか?

ぞくぞくするスリルや、はらはらするサスペンスを味わいたいとか、探偵になったつもりで事件の謎を推理してみたいとか、作者の考えたトリックを見破って犯人を当てたいとか、いろいろ理由はあるだろう。

そのなかには、作者の仕掛けた見事なトリックや意外な犯人に騙される楽しみもある。一杯くわされて、ああそうだったのかと感心して、喜ぶというのは、ミステリにしかないことである。しかも、手品や奇術と違って、最後にはタネ明かしまで親切にしてくれる。これで腹が立ったら、作品の出来栄えか、あなたの顔か、どちらかがよほど悪いと考えるしかない。

ミステリにはミステリのルールがある。それを知らなくては、どんな傑作でもばかばかしい小説としか思えないだろう。

そこで、これからミステリを楽しみたいあなたに、海外ミステリの歴史と作品の選びかた、読みかた、面白さ、楽しみかたなどを説明していこう。

ミステリの面白さとは何であろうか?

江戸川乱歩は、ミステリ(当時は「探偵小説」といった)の面白さの条件として、次の三つの要素を挙げている。

  1. 発端の不可思議性
  2. 中途のサスペンス
  3. 結末の意外性

ハードボイルドや冒険小説などを別とすれば、基本的にミステリの魅力は、この三つの要素の中に含まれる。

「発端の不可思議性」とは、物語の冒頭で、これほど不思議な事件、奇怪な謎があるだろうかと読者に思わせることである。読者の強い関心をひくのには、不可欠な要素である。

その実例を挙げると、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズのシリーズに「六つのナポレオン」という作品がある。ナポレオンの石膏像がかたはしから打ち砕かれるという怪事件が起こる。狂人の仕業ではないから、犯人はナポレオンに恨みでもあるのか? また、別の目的があるのか? なぜナポレオンの石膏像に限って壊していくのか? 読んでいくと当然の疑問が起こる。そこで謎の解明を知りたさに、先へ先へと読みたくなるのである。「発端の不可思議性」にひきこまれた結果である。

チェスタートンのブラウン神父シリーズには、次のような発端がある。寝たきりの老人が、寝室の窓から飛び下りて、片足でぴょんぴょん庭を横切り、長い剣で自分の胴を突き刺した挙句、高い樹で首を吊って死んでいたという事件が起こる。これは現場の状況からの推理であるが、何とも異常な出来事である。足腰立たない老人にそんな器用な真似ができるか? 特別恨みも受けていないのに、どうしてそのような不自然な死を遂げることになったのか? いろいろと謎が残る。

これらの謎は異常現象ではないから、どうしてこのような事件が発生したかを、結末において、読者に納得がゆくよう説明しなくてはならない。とびきり不可解な謎を提供して、それを一点の不自然さもなく、論理的に解明していくからこそ、その謎が生きてくるのであって、それが本格物といわれるミステリの基本である。不可解な謎を不可解なまま、あるいは不自然な結末をつけては、竜頭蛇尾の駄作になってしまう。そこに読者の知的興味を喚起するためのミステリを創作する側の苦心がある。

例えば人間消失事件を扱っても、本当に消えたのでは怪談になってしまうし、異次元へ移動したのではSFである。ミステリであるからには、そこに納得できるトリックがなくてはならない。錯覚、隠れ場所、替え玉、早業、なんでもよいから合理的な解決方法で結末をつけなければ、ミステリとして成立しない。その謎が不可思議であればあるほど、その解決が鮮やかであればあるほど、そのミステリは優れたものとなり、そこにミステリのダイゴ味のひとつがある。

「中途のサスペンス」は、冒頭の謎を受け、読者の関心を結末まで保ってゆくために必要なテクニックである。次々と奇怪な事件を発生させたり、犯人捜査を展開したりして、絶えず読者を退屈させないように、不安感や緊張感の持続につとめなくてはならない。

ウイリアム・アイリッシュのサスペンス小説「幻の女」は、「発端の不可思議性」「中途のサスペンス」「結末の意外性」と三拍子そろった傑作だが、詳しい説明は小説を読んでいただくとして省くが、中途のサスペンスだけでもすばらしい。

アリバイのないため無実の殺人罪で死刑を宣告された男が、刻々迫る執行日を前に、友人の努力で冤罪を晴らそうとするが、果たして刑の執行に間に合うかというところにサスペンスが生まれる。「死刑150日前」からはじまるタイトルには、「死刑執行当日」「死刑執行時」「死刑執行後1日」とあって、主人公の運命がどうなるか、その焦燥感や不安感が、読者の気持ちを捉えてはなさないのである。

こうした作品構成上の工夫は優れた作家なら、だれしも努力してきていることである。ジェイムズ・ボンドの作者イアン・フレミングは、売れない純文学を書いている甥から、「どうしておじさんのくだらない小説が売れて、ぼくらの真面目な文学が見向きもされないのだろう?」と皮肉をいわれて、「それは読者に次のページをめくらせる技術を心得ているからさ」と一蹴している。

フレミングはエンターテインメントとしての小説の骨法を熟知していたので、青臭い甥っ子の退屈な純文学など阿保らしいと思ったのだろう。フレミングの作品は大人の紙芝居だの、荒唐無稽だのいわれるが、どうして、イギリスらしい教養と趣味と経験を持ったインテリが書いたエンターテインメントで、アメリカや日本の作家が容易に真似のできるものではない。ミステリに限らず、どんな読み物でも、途中で読者を飽かせない工夫は必要で、次のページをめくるのがもどかしい気持ちに、読者を追いこまなくては成功とはいえない。

ミステリのなかでも、本格推理小説(パズル・ストーリー)となると、中途のサスペンスのほかに、「推理への参加」が加わる。中途において、作者の提出したデータやヒントから、読者は眼光紙背に徹して、犯人やトリックの推理に参加する楽しみがある。推理や洞察というのは、人間が他の動物とは異なる優れた能力のひとつであるから、大いに頭脳をしぼって、作者と知恵比べをすることである。その結果として、犯人やトリックを見破れれば優越感を覚えるし、外れてもそれはそれで楽しいではないか。ヴァン・ダインもいっている。「ミステリとは知的頭脳遊戯である」と。

「結末の意外性」は、ミステリの最後に残された、取っておきの大きな楽しみである。すべては結末のための予告編にすぎないともいえる。それだけ読者の期待が大きいのであるから、作者も力を注いでいる。パズル・ストーリーであれば、今までに提示した謎やトリックの論理的解明、犯人の指摘、真相の暴露といった重要な作業が結末に集中している。読者は息づまる思いで、自分の予想の裏をかき、あっといわせる意外性を待ち望んでいる。

「結末の意外性」を最も特徴づけているのは、アガサ・クリスティの「アクロイド殺害事件」であろう。これは作品構成上の珍しいトリックと、それに伴う意外な犯人というアイディアだけで出来上がった作品である。一度だけしか使えないトリックという点で、「幻の女」に似ている。

意外性というのは、手品のタネ明かしと同じで、真相が暴露されてみると、はたと膝を打って感心する作品は少なく、なあんだバカバカしいということが往々にしてある。トリックにバカバカしさ、不自然さがつきまとうのは、ミステリの宿命である。その常識的には他愛のないトリックに、巧みな謎とストーリーの衣を着せて、面白く読ませるのが作家の手腕である。トリックに現実性がなくても、論理的に不自然でなければ、不可解な謎とその意外な結末を楽しんでいればよいではないか。所詮、ミステリも遊びのひとつにすぎない。それがつまらないというのは、知的ゲームや稚気やユーモアを解さない人で、ミステリの読者には不向きの人というしかない。

人間は騙される、一杯食わされることに快感を覚える面もある。パズル・ストーリーであれば、そのルールを知っての上で、騙されることもミステリの楽しさのひとつであろう。

意外性には反復がきかない。忘れでもしない限りは、一回だけのものであることは自明の理である。そこで読者としては、さらに新しい驚きを求めて、次々と面白いミステリを探してゆくうちに、いつの間にかミステリの虜となっている自分に気がつくのである。
以下略

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