英国ミステリ小説というもの

『死と踊る乙女』解説より:関口苑生

かの吉田茂元首相が、とあるインタビューで愛読書は何かと問われ、野村胡堂の『銭形平次』を挙げたところ、多くの識者たちの失笑を買ったというエピソードがある。これについて、中村真一郎は『深夜の散歩』(講談社、福永武彦・丸谷才一との共著)の中で「英国好きの紳士である吉田老は、ただ英国流の文学の読み方の常識に従って答えただけなのだ」と弁護したものだった。

というのも、吉田茂自身が『銭形平次』を読む理由として、現代の小説はいくら読んでも、そこに生活が浮かび出て来ないからつまらないが、『銭形平次』の中には江戸の市民生活があると説明していたからだ。「つまり、氏は小説に対して、倫理的見方に偏する我が近代小説観を排し、英国流の風俗的見方に合致するものとして、『銭形平次』を挙げたということに過ぎない。高級低級の問題ではない。軽蔑した「識者」のほうが、小説に対して、あまりにも日本的な狭さを持っていたということなのである。吉田老は『銭形平次』を小説だといっているだけで、それ以上の意味はない」(同上書)

この中村真一郎の指摘は、英国における小説および探偵小説(ミステリ)の認識や読者の考え方が、日本のそれといかに異なっているかを見事に言い表している。英国の読者はそれが探偵小説だからという理由でことさら熱心に読む、あるいはまた逆に無視するという傾向はなく、ごく当たり前に普通の小説として扱っているのである、と。

これが日本の場合となると、たとえば江戸川乱歩が『幻影城』で唱えた「探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれていく径路の面白さを主眼とする文学である」という定義が今にいたるまで主流を占めている。そして、その乱歩からして同じ『幻影城』の中で「風俗小説と云えばリアリズム文学に相違ない。すると、普通の意味のリアリズムと探偵小説は相容れないのだという信念を、執拗に持ちつづけている私には、どうにも同意しにくい源流である」として、探偵小説と風俗小説とは別物だと最初から決めつけていた。

ここで乱歩の言う<風俗小説>とは、自然主義的なリアリズム文学を指しているのかもしれないが、それにしても何というのか、あまりにも堅苦しい概念に囚われすぎているような気もする。もちろんそうした不自由さ、ある一定の枠の中でルールを守っていくことこそが、ジャンル文学であるミステリを愉しむ基本となっているのは確かなのだが、近代小説発祥の地でもある英国では、もっとおおらかな捉え方をしていたように思われるのだ。

極端に言えば、常套句のごとく使われている「伝統的な英国ミステリ」という言葉にしても、探偵小説の伝統というよりも、むしろ<小説>そのものの伝統と考えるほうが素直に頷ける気がする。難解な秘密や、論理性の問題は個々の作品の中で追求される特色、独自性であって、伝統とはまた違ったものではないか、とそんなことまで思ってしまうのである。謎と論理を特化させていき、(おそらくは乱歩も理想としたであろう)確固たる探偵小説の枠組みを築き上げていったアメリカや日本の場合とは違い、まずは小説ありきなのである。

そう考えていくと、伝統的な英国ミステリの祖型は、たとえば意外な人物像が明らかになる結末を迎えるヘンリー・フィールディングの『トム・ジョーンズ』であったり、英国の田舎の生活情景が微に入り細をうがって描かれているジェイン・オースティンの『高慢と偏見』であったりと、いわゆる十八世紀風の風俗小説にあるのかもしれない。ダフネ・デュ・モーリアの『レベッカ』なども、風俗小説の中にゴシック・ロマンの伝統と雰囲気を近代的な形に移しかえた作品と言えようし、英国ミステリの初代(?)女王で「私の作品は、純粋なクロスワードパズルではなく、風俗を扱った普通の小説として受けとってもらいたい」と発言したドロシー・L・セイヤーズの悠揚たる描写と事件への迫り方も、やはり根底には言葉通りに探偵趣味の普通小説といったおもむきがどこかに感じられる。

こうした小説には、人間が集まって生活している状態がありのままに再現され、同時にその生活の場の情景もきめ細やかに描かれている。そんな作品に接したとき、人は知らず知らずのうちに心動かされるものだ。小説を読む愉しさとはそんなところから生まれてくる。『銭形平次』を読んで、江戸庶民の生活の匂いが感じられるといった吉田茂の指摘は、真に素直な感情であったと思わざるを得ない。

ところが、その英国においても1960年代には、マイクル・ディブディン曰く「クリスティーの呪縛時代」を迎えていたらしい。どういうことかというと、この時代はアガサ・クリスティーのエピゴーネンたる謎解きパズラーや、知的ゲームとしてのミステリに対して、読者が不快感を表明しはじめたのであった。つまりはこの場合も人間不在の不満が取り沙汰されたというわけだ。翻訳家の松下祥子氏によると、同様のことは70年代になってクリスティーに代わって第一人者となり、ひたすら犯罪の動機にこだわったルース・レンデルや、「パズルから小説へ」というセイヤーズ論を発表したP・D・ジェイムズなども語っているそうで、これらのミステリは古くさくて現実味のないゲームにしかすぎず、これからはもっとリアルで、本物の人間が、本物の人間ならではの動機から罪を犯すありさまが描かれねばならないと、今後の方向性を示唆したのだという。

かくして80年代あたりから、いわゆる本格ミステリを始め、他のミステリ・ジャンル――ハードボイルド、犯罪小説、時代・歴史小説など――もより多様化し、ジャンル・ミックスの傾向も見られ、90年代以降はますます先鋭化していくことになる。それもミステリ・プロパーの作家だけではなく、メイン・ストリームの作家たち……思いつくままに名前を挙げてみるとギルバート・アデア、カズオ・イシグロ、イアン・マキューアン、パトリック・マグアラといった<普通小説家>たちがミステリの手法を使って、自分の世界観を展開しはじめたのである。

そうした流れの中にあって、実情はともかく個人的な印象を述べると、警察小説だけはひたすらマイペースの進化を遂げてきたような気がする。英国には、アメリカの<87分署>シリーズに匹敵するような超メジャーな警察小説は見当たらないが、それでも地道に根強い人気を誇るシリーズ作品がいくつもある。古くはJ・J・マリックのギデオン警視がそうだろうし、コリン・デクスター、レジナルド・ヒル、ピーター・ラヴゼイの各シリーズも忘れてはならない。また近年ではR・D・ウィングフィールドとイアン・ランキンの存在が断然光っている。主人公はいずれも強烈な個性を持ち、緻密なプロットと巧みな伏線が、最後になって見事に収斂していく鮮やかさがあるのだ。最新科学技術の開発で捜査方法はかなり様変わりし、社会環境の変化による格差の度合いも、犯罪の温床となる地域も、動機も、犯行の手段も、すべてが大きく変わってきているにもかかわらず、英国警察小説のこうした特徴はいささかも変わりない。

だが、何よりもまず注目したいのは、これらの警察小説には、それこそ「英国の伝統」である喜劇と風刺という調味料がふんだんに塗され、その上で深刻な悲劇が描かれているという点だ。さらには法と秩序、平和と安らぎを重んじながらも、社会にはびこる悪への関心も強い英国人ならではの二律背反した気質と、文学の特徴が色濃く出たミステリとなっている。
以下略

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