著作名
ウールリッチ傑作短篇集 123456
著者
コーネル・ウールリッチ
ジャンル
サスペンス短篇集
星の数
★★★
出版社
白亜書房
編纂出版
2002
備考
短篇集のあとがきより

ウールリッチ短篇集

ウールリッチ傑作短篇集1「砂糖とダイヤモンド」

「診察室の罠」
ウールリッチが初めて書いたミステリ短篇。掲載誌《ディテクティヴ・フィクション・ウィークリー》は、当時多数あったパルプマガジンのなかでもトップランクの雑誌である。ウールリッチはミステリ作家としては恵まれたスタートを切ることができた。殺人の容疑をかけられた友人のために命がけで真犯人を追うという、得意の設定が第一作から使われている。
「死体をはこぶ若者」
たとえばテレビドラマにでも映像化したくなるような作品。わずか六時間ほどのあいだの出来事をていねいな筆致で描いて、サスペンスあふれる仕上がりになっている。ただ改めて読み直すと、主人公の父親への愛情と義母に対する憎しみが突出している。図式的な解釈かも知れないが、複雑な家庭環境で育ったウールリッチの両親に対するゆがんだ感情が投影されていると言っても的はずれではないと思う。
「踊りつづける死」
二十年代、アメリカではマラソンダンスという奇妙なコンテストが流行した。フォックス・トロットにあわせてカップルがひたすら踊りつづけ、最後まで残ったものが賞金を手にする。百二十日近くつづいたコンテストもあったという。長時間踊りつづけた参加者が精神を錯乱させ、他の参加者につかみかかったりすることが現実にあった。死者も出ている。この年の初め、マラソンダンスを描いたホレス・マッコイの処女長編『彼らは廃馬を撃つ』が刊行されている。ウールリッチは間違いなくそれを読んでいたはずだ。
「モントリオールの一夜」
題名通り、珍しくもモントリオールを舞台とした軽快な作品。異国の街で殺人事件に巻き込まれ、一人孤独な戦いを挑むという展開は、後年の長編でも使われているいわば定番の設定だ。1950年にアイリッシュ名義で出た「Silk Night of Mystery」は、本編を含め六つの都市を舞台とした作品をまとめた、粒ぞろいの短篇集でもある。本邦初訳。
「七人目のアリバイ」
たいていの紹介文で「皮肉な結末は最初から見え見えだが……」と書かれている。たしかにその通りだが、なかなかとぼけた味があり、うまくまとまっている。こうした短篇をさらりと書ける作家は、パルプマガジンの編集部では重宝されたことだろう。
「夜はあばく」
ウールリッチの短篇を読み解く鍵の一つは、掲載紙だ。ウールリッチは、掲載紙の路線にあわせてさまざまなタイプの作品を書き分けることのできる器用な作家だった。彼は数多くの雑誌に作品を書いているが、なかで《ストーリー》誌には特別な意味があった。ホイット・バーネットとマーサ・フォーリーが編集する《ストーリー》は、通俗的なパルプマガジンではなく、シリアスな文学の書き手が自らの作品が掲載されることを願う、第一級の文芸誌だった。ウールリッチは生涯に二度、この雑誌に短篇を採用されている。その一つが本篇「夜はあばく」で、もう一つが「さらば、ニューヨーク」(別巻収録予定)である。訳していると、他の作品以上に作者の気合がひしひしと伝わってくる。構成も文章もよく練られ、緊張感が最後まで途切れない。
「高架鉄道の殺人」
高架鉄道とその沿線風景の描写がすばらしい。主人公のライヴリー刑事も魅力的で、犯人の割れ方はあっけないが、スリルに富んだ傑作である。マンハッタンの高架鉄道は1870年代に敷設され、以後1950年代まで走っていた。巨大な高架の周辺は必然的に地価も下がり、この物語に出てくるような貧しい風景がつづいていた。運賃は五セント、主人公の通勤経路である五九丁目からサウス・フェリーまでの所要時間は三十分ほどだった。駅と駅の間隔は短く、列車は一分も走れば次の駅に到着した。ライヴリーが線路の上を歩いた距離は、せいぜい二百メートルほどだろう。
「砂糖とダイヤモンド」
場末のカフェテリアの砂糖壺のなかから、ダイヤモンドのネックレスを見つけるという発端が意表をつく。こうした巻き込まれ型のスリラーも、ウールリッチが得意としたパターンの一つだった。大不況に沈むニューヨークの雰囲気が鮮やかに描き出されている点も魅力である。本邦初訳。
「深夜の約束」
「死体をはこぶ若者」とほぼ同時期に書かれている。ウールリッチはミステリ作家となったのちも、こうした作品をロマンス小説誌に書きつづけていた。一筆書きのようなあっさりした作品だが、コンサートになぞらえるならアンコールを聴くつもりで楽しんでいただけたらと思う。

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ウールリッチ短篇集

ウールリッチ傑作短篇集2「踊り子探偵」

「目覚める前に死なば」 37年
子供を主人公とした短篇のなかでは、知名度こそ劣るものの、いちばん出来がよい作品だと私は思っている。今回訳してみていちばんの驚きは、使用したテキストに、読者として親しんできた創元推理文庫版にはない最後の一行があったことだった。この一行があったほうがよいかどうか、好みが分かれるところだと思うが、いかがだろうか。ちなみに今回の訳には、初出誌ではなく、エイヴォンから出た単行本『If Shoud Die Before I Wake』を使った。
「騒がしい幽霊」 37年
職人芸というか、ウールリッチの芸達者なところを示す短篇。もともととぼけた味を出すのがうまい作家だが、こうしたコミカルな話もお手のものだったようだ。アメリカ人好みのユーモアとでもいおうか。最近、Cornell Woolrich com(http://members.toast.net/woolrich/black.htm)というアメリカのファンサイトを見つけたが、その掲示板でもこの短篇は以外に人気があり、なるほどと思った。本邦初訳。
「ワルツ」 37年
一風変わった掌篇。結末の理不尽さというか不条理さは、はたして計算されたものなのか、それとも単に話が破綻しているだけなのか、判断に迷わされる。この十年前に書かれた、同じようにお舞踏会を舞台にしたロマンス短篇「舞踏会の夜」と読み比べてみていただきたい。
「晩餐後の物語」 38年
さまざまなアンソロジーに収録され、ラジオやテレビでもくり返し放送されている作品。「裏窓」とならんで最も知名度が高い短篇で、ウールリッチの代表作の一つという言いかたもされてきた。今となっては仰々しく古めかしい印象は否めないが、法螺話を悠然と語っているようなところがあって、巨匠の風格を感じさせる。
「踊り子探偵」 38年
都会のダンスホール、踊り子、サスペンス、音楽、恋、深夜の救出劇。ウールリッチという作家のイメージをつくりあげている要素をすべて盛り込んだような傑作。《ブラック・マスク》には、「晩餐後の物語」につづいて二ヶ月連続で掲載されたことになる。1937年に編集長が硬派のジョゼフ・ショウから女性編集者ファニー・エルスワースに替わったことで、パルプマガジンの最高峰である同誌にウールリッチの登場する機会は飛躍的に増えた。おそらくショウにとっては、ジンジャーのような娘が活躍する物語は好みではなかったろう。
「黒い旋律」 39年
単行本に収録されぬまま埋もれていた作品のなかから一篇、異色作を紹介しておく。不気味な場面を発端として話を一気に展開させる、いかにもパルプマガジン的な中篇。よくも悪くも紙芝居的だが、ジャズバンドの女性ボーカルを主人公にしたことで、独特の雰囲気が生まれている。本邦初訳。
「妻がいなくなるとき」 39年
愛する者が不意に姿を消し、主人公がその行方を追って必死に駆けまわるという、もっともウールリッチらしいテーマがはじめて使われた作品。細かい矛盾点はあげていけばきりがないが、サスペンスに富み、結末まで一気に読ませる迫力がある。この時期を代表する傑作のひとつ。
「舞踏会の夜」 27年
処女長編『カヴァー・チャージ』でフィッツジェラルドの後継者と騒がれたのち、第二作『リッツの子供たち』を雑誌に連載中に書かれた作品。タイトルも含め、華やかな二十年代の香りが漂う小品。この短篇とともに掲載されているウールリッチの書簡が興味深いのであわせ紹介しておく。

「私は十二歳のときナイトクラブ、懸賞ボクシング、野球を初めて見た。それより前、幼い頃には闘牛、メキシコの地震、カリブ海の竜巻についてはいっぱしの評論家だった。技師だった父に連れられ、服とお気に入りの本を詰めこんだトランクを片手に、あちこちのホテルを泊まり歩いた。学校にはめったに通えなかったが、本はたくさん読んでいた。当時よく読んだ作家は、ターキントン、スティーヴンソン、ブルワー・リットン、ヴィクトル・ユーゴー。一度に持ち歩ける本の数が限られていたから、同じ本を何度もくり返し読んでいた。

私たちは1918年、戦時の興奮に沸くニューヨークに戻ってきた。父の友人の一人がイタリア空軍に入隊する途中ニューヨークに立ち寄った際、<マキシム>や<チャーチル>など当時流行の店に連れていってくれた。かくして私は十二歳で夜更かしを覚えたのである。今でも<ジャーダ>(ボブ・カールトン作詞作曲のナンセンス・ソング。この年爆発的に流行した)が最高の曲だと思っている。

私はそれ以来、機会あるごとに夜遊びを楽しむようになった。1922年にはコロンビア大学に入学した。振り返ってみると、大学生活はそれなりに楽しかった。作家になったきっかけは、ジョン・アースキン先生の講座だった。徹夜で書いて提出した課題作を先生は気に入ってくれたらしく、良い成績をもらえたのだが、このときの文章が核となって『カヴァー・チャージ』が生まれたのだ。

もう夜明けまでクラブにいることはないが、今では夜明けまでクラブの話を書いている。私は一行も中身のない、タイトルだけを書き並べたノートを持っている。そのタイトルを使い切るまでは、カヴァー・チャージ(クラブなどのテーブルチャージの意もあり)を払う機会はあまりないだろう」


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ウールリッチ短篇集

ウールリッチ傑作短篇集3「シンデレラとギャング」

「黒い爪痕」 39年
長編小説『黒いアリバイ』の雛形となった作品。のちの長編では、舞台をハリウッドから南米に移し、エピソードがさらに一つ加わり、犯人が違う人物に変えられている。逆に言うなら、犯人は誰でもいい話だということか。長編版と読み比べると物足りない面もあるが、むしろ冗漫な箇所がないぶん異様な迫力があり、独立した作品として十分に評価できる。本邦初訳。
「ガラスの目玉」 39年
冒険心あふれる少年が、刑事である父親のために殺人犯を追いかける。シンプルな設定を生かした上質の作品。この短篇を掲載した雑誌が《ブラック・マスク》だったのは意外だった。「踊り子探偵」の解題でも触れたが、柔軟路線の女性編集長ファニー・エルスワースの好みがうかがえる。そう言えば、たしかに主人公のフランキーは地理の教科書に隠して《ブラック・マスク》を読んでいたのだった。その一節の意味が、ようやくわかった。
「アリスが消えた」 40年
ウールリッチが数多く書いた、消失テーマの作品のなかでも代表作に位置づけられる中篇。解き明かされる消失のからくりにはかなり無理があるが、主人公の焦燥が鮮やかに描き出され、大団円になだれ込むまでのサスペンスは一級品である。

この作品に関連して、ウールリッチ自身の結婚について触れておきたい。ウールリッチは自作の映画化に協力するためハリウッドに滞在中、映画産業の創始者の一人である大物プロデューサー、J.スチュアート・ブラックトンの娘グロリアと知り合い、1930年12月6日に結婚した。このときウールリッチは二十七歳、グロリアは二十歳だった。しかし、ふたりの結婚はわずか三ヶ月で破局を迎えてしまう。その原因はウールリッチの同性愛癖にあったようだ。ハネムーンには別のカップルを同行させ、グロリアには別れるまでついに指一本触れなかったらしい。ウールリッチはこのあと一人ニューヨークに戻り、その後は母親との二人暮しを生涯続けることになる。

こんなことを書くのは、この物語の主人公たちの行動の不自然さがどうしても気になるからで、はたしてハネムーンの最初の夜にこんなふうに別々の宿に泊まるものだろうか。この作品に限らず、ウールリッチが描く新婚風景は常にどこかゆがんでいる。彼の屈折した部分が少なからず投影されているように思える。

「送っていくよ、キャスリーン」 40年
ウールリッチの小説の冒頭の一節というと、どうしても『幻の女』のそれに触れざるをえなくなるが、短篇ではこの「The night was dark blue,and a big silver-dollar for a moon was stuck into it up abobe.(夜はダークブルー、窓には大きな銀貨のような月が貼りついていた。)」がすばらしいと思う。結末、最後の一節もせつない余韻を残す。洗練度というか完成度は必ずしも高くない。荒削りな作品だが、甘く濃密な雰囲気に包まれた、きわめてウールリッチ的な傑作である。とても哀しい話で、ウールリッチの短篇のなかで私がいちばん好きな作品でもあった。ただ、訳しながらじっくりと読み返してみて今さらながらに気づかされたが、この犯人の人物造形はいくらなんでもひどすぎるというか、問題だろう。原文では病名まではっきり書かれているが、訳出に際しては意識してぼかしたことを記しておく。
「階下(した)で待ってて」 40年
「アリスが消えた」とよく似た設定の物語で、書かれた時期もごく近い。安直といえば安直なのだが、味付けの違いを楽しんでいただけたらと思う。恋人の消えかたは、こちらの方がシンプルで無理がないと思う(証人の数が少ないのもよい)。恋人が実在する証拠の見つかりかたも悪くない。たたみかけるような展開で、スピード感にあふれている。真相に戦争の影が色濃く差しているのがウールリッチにしては珍しいが、そのせいで話が薄っぺらになってしまったきらいがある。それにしても、警察には最初からもう少ししっかり調べてもらいたいような気がするが、そのあたりはご愛敬か。
「シンデレラとギャング」 40年
あかね書房の「少年少女世界推理文学全集」におさめられていたことで(常盤新平訳)、ある世代の読者にとってはとても馴染みのある作品。フルテキストで読んでも、子供向きにリライトされたものを読んでも、ほとんど印象が変わらない不思議な作品だ。
「ドラッグストア・カウボーイ」 27年
タイトルの「ドラッグストア・カウボーイ」とは、ドラッグストアや街角にたむろしている男たちのことをいう。ウールリッチの20年代の作品を特徴づけるキーワードの一つは「身分違いの恋」で、貧しい(ごくふつうの)男と金持ちの娘のラブストーリーが数多く書かれている。両親がマッチョな鉱山技師と良家の娘という組み合わせだったことが影響していると考えるのは、うがちすぎだろうか。本邦初訳。

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ウールリッチ短篇集

ウールリッチ傑作短篇集4「マネキンさん今晩は」

「マネキンさん今晩は」 40年
じれったいほどうぶな少女が犯罪に巻き込まれ、命の危険にさらされる。三巻に収録した「シンデレラとギャング」と似た雰囲気があると思っていたが、よくみればまったく同じ月に発表されていた。もちろん、掲載誌は異なる。デパートのウインドウに立つマネキンを小道具に使ったことで、風景描写などほとんどないのに都会的な洒落た雰囲気をつくり出している。そのあたりはうまいと思う。
「毒食わば皿まで」 40年
平凡で善良だった男が、一つの犯罪をきっかけにして破局へとなだれ込む。ウールリッチが良く使ったパターンの物語だが、似たような話がいくつもあるなかで、本書は傑出している。ウールリッチは、貧しい者の苦悩を描くのが本当に巧みだ。主人公の焦燥にこちらまで胸苦しくなるが、多少なりとも同情できるのは最初の殺しまでという気もする。吝嗇で性悪のパロウズと、善良だったはずが何人もの命を奪っていくペインと、悪人はどちらなのかと考えさせられたりもする。ウールリッチはそのような意図では書いていないと思うが。
「霧のなかの家」 41年
いかにもパルプマガジン的で、初期のアクション路線に立ち戻ったような短篇。本業書の一巻目におさめられていても違和感がないような作品だ。一夜のできごとをテンポよく描き、ひと息に読ませる。サンフランシスコが舞台というのは、ウールリッチとしてはとても珍しい。主人公の設定が、戦時に書かれたことを思い出させてくれる。本邦初訳。
「爪」 41年
これぞ古典という掌編。きわめて印象的だが、ウールリッチらしくない作品でもある。創元推理文庫の「世界短編傑作集」(江戸川乱歩編)で読んで以来、久しぶりの再読となったが、以外に古くささは感じなかった。最初から落ちが見え見えなのはどうでもいいことだが、どうしても書かずにいられないのは、なぜ犯人は落ちた爪を拾って逃げなかったのかということだ。
「我が家の出来事」 41年
古き良き時代のミステリと言えばよいのだろうか、人が殺される話だというのに、どこまでものどかな物語。主人公がいくら危険にさらされようと、犯人たちがどれほど奸計をめぐらそうと、なぜかのんびりしている。強烈なサスペンスを期待されると困るが、なかなか味のある短篇だと思う。読後感も悪くない。本邦初訳。
「裏窓」 42年
この話の設定を思いついたとき、傑作が書けると確信したのだろうか、文章に非常に気合が入っている。好みはあろうが、ウールリッチの短篇のなかでも五指に入る傑作だと思う。「裏窓」といえば当然アルフレッド・ヒッチコック監督の「裏窓」で、ウールリッチファンでも映画の方が好きという人がいそうだが、私は原作に軍配をあげたい。ところで、どこまでが本当の話かわからないのだが、映画「裏窓」の完成披露パーティに、ウールリッチは原作者でありながらなぜか招かれなかったようで、そのあたりの恨みを切々とつづった文章が残されている。
本篇は、雑誌掲載時には It Had to Be Murder(あれは殺しのはずだ)、単行本収録時には Rear Window(裏窓)と、なかなか意味深長でいいタイトルがついている。ところが、ウールリッチ自身が自らつけた仮題は、Murder from a Fixed Viewpoint(固定された視点から見た殺人、といった意)と、どうも冴えない。かように、ウールリッチが原稿につける仮題は即物的なものが多い。本人は題名にはあまり興味がなかったのではないかと思う。ときおりエッセイなどでウールリッチの題名のセンスのよさを評価する文章を見かけるが、残念ながらその大半は担当編集者がつけなおしたものであるようだ。
「睡眠口座」 42年
「毒食わば皿まで」もそうだが、ウールリッチは不況を背景とする物語が本当に得意だと思う。はたして銀行はこれほど安易な本人確認しかしないのか、本物のリー・ニュージェントはいったいどういうつもりだったのか、これほど偶然が積み重なってよいものか、そもそも主人公は金を手に入れたあとなぜすぐに町を出ていかなかったのか、疑問は限りなくわいてくるが、この中篇にはそうした矛盾点をすべて忘れさせてくれる魅力がある。結末近くでの主人公の「それでも生きたい」という心のなかの叫びが、なかなか感動的に響いた。
「死者が語れば」 43年
シンプルな文章とシンプルな筋立てで、複雑な余韻を残す。ウールリッチの四十年代の短篇のなかでは、白眉の一篇。空中ブランコ乗りの織りなす三角関係。いったいどうしてウールリッチは、このような設定の短篇を書こうと考えたのだろうか。彼の全作品のなかでも異彩をはなっている。

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ウールリッチ短篇集

ウールリッチ傑作短篇集5「耳飾り」

「耳飾り」 43年
思いがけず殺人事件に巻き込まれ、窮地に陥った女の心の揺れをたくみに描いた中篇。イヤリングという小道具の使いかたがうまい。ウールリッチの描く女性の例にもれず、主人公の心理はなかり不自然だが、ネルソンの逮捕劇のあとの会話などを読むと、意図的に感覚が少しずれた上流の女性を描こうとしたのかとも思わされる。ともあれ、彼女のモラルは「妄執の影」で描かれているそれとはずいぶんと異なるようだ。
「射撃の名人」 44年
ハリウッドを舞台にした快作。意表をつく展開で、最後まで飽きさせない。テンポは軽快だし、嫌味のないユーモアがある。ネルソンとロジャースのかけあいも、いい味を出している。これが《ブラック・マスク》に載ったウールリッチの最後の作品になった。
「妄執の影」 45年
ウールリッチの暗い魅力が最良の形で結晶した傑作。愛する者に対する疑念が徐々にふくらみ、取り返しのつかない破局になだれ込む。フランスで映画化された際には(監督ジャン・ドラノワ、主演ミシェル・モルガン、ラフ・ヴァローネ)、主人公の夫婦は空中ブランコ乗りに変えられ、第四巻におさめた「死者が語れば」と混ぜ合わせたような筋立てになっている。原題は「Silent As the Grave」(墓場のようなひそやかさ、の意)だが、訳題は映画の日本公開時のタイトルをとった(ちなみに、映画のタイトルはその後「愛の迷路」に変えられている)。
「間奏曲」 47年
ダンスパーティーを舞台とした愛と死の物語。フロアに流れる音楽がいつまでも耳に響いているような余韻を残す。うぶな娘におそいかかる悲劇は、掌編「ワルツ」(第二巻に収録)を連想させる。「ワルツ」もとことん不条理な結末だったが、本篇も解けない謎を残したまま終わる。
「女優の夫」
リッピンコット社から1949年に刊行された短編集『The Blue Ribbon』が初出。ウールリッチ節全開の、甘く感動的な物語。1923年、撮影中にセルロイドの衣装に引火して、女優マーサ・マンスフィールドが命を落とすという事故がハリウッドで現実にあった。ウールリッチはこの事故を何度もくり返し自作に借用している。
「選ばれた数字」
若いふたりが運命に翻弄される、はてしなく暗い物語。もともとウールリッチには暗い話が多いが、そのなかでも本篇と最晩年の短篇「命ある限り」の救いのなさは際だっている。運命、そして人生の理不尽さが鮮烈に描かれていて、あと一歩踏み込めば、とてつもない傑作になっていたようにも思える。『Beyond the Night』(エイヴォン社、1959年)はオカルト路線の短篇を集めたペーパーバックの短編集。本邦初訳。
「復讐者」
ウォーカー社から1965年に刊行された短編集『The Dark Side of Love』には、ミステリとも恋愛小説ともつかぬ、奇妙な物語ばかりが集められている。この頃のウールリッチは明らかに精神的なバランスを崩していて、そのこわれた部分が作品に露骨に顔をのぞかせている。本篇もとりわけ風変わりな物語で、状況設定も、結末のつけかたも不自然きわまりないが、得体の知れない迫力がある。本邦初訳。
「パルプマガジン作家」 58年
主人公のダン・ムーディはチェックインのあと、九二三号室に案内される。作中には記されていないが、彼が泊まったホテルの名前は、セント・アンセルムという。もともと、この作品は長編『聖アンセルムホテル九二三号室』のエピソードの一つとして書かれ、出版前に編集上の都合で削除されたものだった。ダン・ムーディは、当然にウールリッチ自身の分身でもあるだろう。ウールリッチはミステリを書くようになったのち、それまでに書いた小説がすべて「透明なインクで書かれていて、消えてしまってくれたらどれほどいいか」と記している。それを踏まえると、ムーディがこの夜書き上げた小説の運命がいっそう意味深長に思えてくる。ここまで原則として作品を発表順に並べてきたが、傑作短編集の掉尾を飾るのはこの短篇がふさわしいと考え、あえて順番を入れ替えた。

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ウールリッチ短篇集

ウールリッチ傑作短篇集 別巻「非常階段」

「私が死んだ夜」 36年
主人公が語る内容が実話であるとほのめかしたかったのだろうが、最初に雑誌に掲載されたときには、著者名が匿名にされていた。いかにも安っぽい仕掛けだが、作品そのものは第一級の傑作である。前年に同一の設定で「私の死」という短篇が書かれているが、本篇の方がはるかに出来がよい。傑作となった最大の理由は悪女セルマの造形で、彼女の存在感は圧倒的である。 振り返ると、本業書にはウールリッチが好んで描いた悪女があまり登場していなかった。
「セントルイス・ブルース」 37年
稲葉氏自身、「ウールリッチの代表的短篇の一つで、当時の世相がにじみ出ている。……アンソロジーに数多く採用され、映画やテレビにもなった」と高く評価している作品。ウールリッチは流行歌を小道具として使うのがうまかったが、本篇ではとりわけ効果をあげている。結末近くの訳文に「ずっと遠くへいってしまった」と何度かあるのは、原文をみると「went straight」で、まっとうな人間になったという意味と、死んでしまったと意味がかけられている。私が訳すとしたら、「まっすぐに行ってしまった」といった直訳調を選んだかもしれない。
「天使の顔」 37年
『黒い天使』の雛形となった短篇。ミステリ作家となる以前に書かれた初期長篇『マンハッタン・ラブソング』の設定を裏返しにした造りでもある。愛する者(この作品では弟)が死刑を宣告され、主人公が身を挺して刻限までに真犯人を突き止めようと奮闘する、いかにもウールリッチ的な物語。もちろん『黒い天使』の方が完成度ははるかに高いが、ユーモアや人情味が差し挟まれ、時間との競争がどこかのんびりしているところにかえって不思議な魅力がある。主人公の造形もすぐれている。
「さらば、ニューヨーク」 37年
本業書の第一巻に収めた「夜はあばく」と同じく、文芸誌《ストーリー》に発表された短篇。一行として無駄がない。見事な完成度の傑作。ウールリッチの短篇のなかではもっともすぐれた作品だと思う。三十年代、不況に沈むニューヨークの都市風景と、追いつめられた男と女の人生があざやかに描かれる。「運命に呪われた男と女が、逃避行にでかけるのだ。無から……無へ」という一節こそが、ウールリッチの小説世界の精髄ではなかろうか。読後、主人公ふたりを運び去る列車の轟音が耳のなかでいつまでもこだまする。
「ぎろちん」 39年
原題の直訳そのものではあるのだが、「ぎろちん」とひらがなで記されたタイトルが強い印象を残す。殺す者と殺される者、場所も時間も異なる二つの物語が交互に描かれ、最後の瞬間に断頭台の下で一つになる。ウールリッチにしてはきわめて珍しい構成の作品。幕切れの一行もあざやかである。稲葉氏自身が好きな作品にあげているだけあって、訳文もいっそう冴えわたっている。
「眼」 39年
身体をいっさい動かすことができず、しゃべることもできない証人が、まばたき一回はノー、二回はイエスという合図を使って、息子を殺した犯人を告発するという設定が秀逸。ウールリッチ自身もこの設定が気に入ったのか、後に長篇『黒いカーテン』でもふたたび使っている。人情味あふれる結末で、読後感もよい(本当はそれほど単純には喜べない状況なのだが)。ウールリッチは、身体にハンディをもつ者を主人公にした短篇を少なからず書いており、本篇や「セントルイス・ブルース」のほかにも、盲目の老人と盲導犬の活躍を描いた「義足をつけた犬」という好篇がある。
「非常階段」 47年
「目覚める前に死なば」「ガラスの目玉」など、少年を主人公にした一連の短篇のなかで、こと知名度という点では、ボビー・ドリスコル主演で映画化された本篇が抜きんでている(『窓』49年、両親役はアーサー・ケネディとバーバラ・へイル、殺人犯はポール・スチュアート)。スターがいない地味な配役のこの映画で、子役のボビー・ドリスコルは一躍注目を浴びるようになった。冒頭の暑苦しい夜の非常階段の風景から、殺人を目撃する場面までが特にすぐれている。稲葉氏ご自身は、子供が主人公の話は訳すのがいちばん難しくて苦手とおっしゃっておられたことを思い出した。

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