「私は十二歳のときナイトクラブ、懸賞ボクシング、野球を初めて見た。それより前、幼い頃には闘牛、メキシコの地震、カリブ海の竜巻についてはいっぱしの評論家だった。技師だった父に連れられ、服とお気に入りの本を詰めこんだトランクを片手に、あちこちのホテルを泊まり歩いた。学校にはめったに通えなかったが、本はたくさん読んでいた。当時よく読んだ作家は、ターキントン、スティーヴンソン、ブルワー・リットン、ヴィクトル・ユーゴー。一度に持ち歩ける本の数が限られていたから、同じ本を何度もくり返し読んでいた。
私たちは1918年、戦時の興奮に沸くニューヨークに戻ってきた。父の友人の一人がイタリア空軍に入隊する途中ニューヨークに立ち寄った際、<マキシム>や<チャーチル>など当時流行の店に連れていってくれた。かくして私は十二歳で夜更かしを覚えたのである。今でも<ジャーダ>(ボブ・カールトン作詞作曲のナンセンス・ソング。この年爆発的に流行した)が最高の曲だと思っている。
私はそれ以来、機会あるごとに夜遊びを楽しむようになった。1922年にはコロンビア大学に入学した。振り返ってみると、大学生活はそれなりに楽しかった。作家になったきっかけは、ジョン・アースキン先生の講座だった。徹夜で書いて提出した課題作を先生は気に入ってくれたらしく、良い成績をもらえたのだが、このときの文章が核となって『カヴァー・チャージ』が生まれたのだ。
もう夜明けまでクラブにいることはないが、今では夜明けまでクラブの話を書いている。私は一行も中身のない、タイトルだけを書き並べたノートを持っている。そのタイトルを使い切るまでは、カヴァー・チャージ(クラブなどのテーブルチャージの意もあり)を払う機会はあまりないだろう」
この作品に関連して、ウールリッチ自身の結婚について触れておきたい。ウールリッチは自作の映画化に協力するためハリウッドに滞在中、映画産業の創始者の一人である大物プロデューサー、J.スチュアート・ブラックトンの娘グロリアと知り合い、1930年12月6日に結婚した。このときウールリッチは二十七歳、グロリアは二十歳だった。しかし、ふたりの結婚はわずか三ヶ月で破局を迎えてしまう。その原因はウールリッチの同性愛癖にあったようだ。ハネムーンには別のカップルを同行させ、グロリアには別れるまでついに指一本触れなかったらしい。ウールリッチはこのあと一人ニューヨークに戻り、その後は母親との二人暮しを生涯続けることになる。
こんなことを書くのは、この物語の主人公たちの行動の不自然さがどうしても気になるからで、はたしてハネムーンの最初の夜にこんなふうに別々の宿に泊まるものだろうか。この作品に限らず、ウールリッチが描く新婚風景は常にどこかゆがんでいる。彼の屈折した部分が少なからず投影されているように思える。