軌道離脱
著作名
軌道離脱
著者
ジョン・J・ナンス
ジャンル
冒険小説
星の数
★★★
出版社
ハヤカワ文庫
原作出版
2006
備考
訳者(菊池よしみ)あとがきより抜粋

物語は、いまから数年後、民間宇宙船による宇宙旅行が営利事業として軌道に乗りはじめたころのアメリカに設定されている。

アメリカン・スペース・アドヴェンチャーズ社(ASA)のキャンペーンで懸賞に当選したキャップ・ドーソンは、生涯の夢だった宇宙旅行に同社の宇宙船イントレビットで乗り出すことになる。イントレビットは五人乗りなのだが、同行予定だった三人の乗客は都合でキャンセル。キップはパイロット兼宇宙飛行士のビルと二人だけで宇宙空間へ旅立つ。

ところが、高度三百十マイルの地球低軌道に乗ったとたん、小さな流星体が飛来してキャビンを貫通、ビルは即死、地上との交信も断絶してしまう。独りぼっちで軌道上に閉じこめられてしまったキャップ、船内の空気は最長でも五日分。絶望感に打ちひしがれながらも、宇宙船を大気圏再突入に導こうと彼は必死で操縦マニュアルを繰りはじめる。

突然の無線途絶にASA宇宙飛行管制センターはパニックに陥り、イントレビット内の状況もまったく不明なまま、救出の可能性を懸命に探しはじめる。アメリカ航空宇宙局(NASA)は、長官がASAの社長と個人的確執をかかえているために救出に動こうとしない。

メイン・エンジンがどうしても噴射せず、軌道離脱できずに死を覚悟したキャップは、ラップトップに手記を打ち込みはじめる。みずからの生涯の記録と反省。宇宙船は今後数十年軌道にとどまっているはずなので、同時代の人間に読まれることはないと思って書く赤裸々な告白と過激な考察は、彼の知らないうちにインターネットで地上に送信されている。メディアがそれを伝えると、ほどなく世界中で推定二十億人がその手記に釘付けとなり、彼が書くそばから夢中で読んでいく。みんな彼とともに涙し、憤慨し、ときには笑い、いろいろ考えさせられているので、生産活動は地球規模で停滞してしまう。そんななか、宇宙船打ち上げによるイントレビット救出計画が数ヶ国で開始される。

地上のそんな大騒ぎなどまるで知らないキャップは、諦念を克服し、メイン・エンジンを噴射させて軌道を脱出、再突入に成功するのか? たとえできたとしても、グライダーの操縦経験しかない素人の彼に、宇宙船を降下させて無事着陸させることができるのか?

主人公のキャップ・ドーソンは、四十四歳、アリゾナ州トゥーソン在住、再婚、四人の子持ち、アメリカの中産階級に属する典型的なワスプ(アングロサクソン系新教徒の白人)の中年男である。宇宙旅行に乗り出す前はまさに仕事人間で、よき夫、よき父になろうと心がけてはいてもままならず、結婚生活は破綻に瀕しているし、前妻の子である長男との意思の疎通は、誤解に起因する感情のもつれから長らく断絶状態にある。

安定軌道から脱出できなくなったキャップが、気持ちを落ち着かせようと、みずからの過去を振り返ってラップトップに綴っていくうちに、孤独な宇宙空間で数日後に間違いなく死を迎える人間としての自己省察が深まっていく。そこに宇宙経験の与えてくれる新たな展望、大局的なヴィジョンが加わって、インターネットで送られてくる洞察力に満ちたその手記が世界中二十億人(!!)の目を捉えて放さなくなるというプロット、はるか上空の密室に閉じ込められ、死を間近にしたごく普通の男の書く勝手な言葉やすっぱ抜きによって、地上のお偉い人間たちがあたふたと奔走したり翻弄されたりというユーモラスなパラドックスはなかなか創意に富んでいよう。それと同時に、地上の欲得がらみのさまざまな人間模様、親子関係の提起する複雑な問題も、随所にほろりとさせるエピソードを盛り込んで印象深く描き込まれている。


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