市民ヴィンス
著作名
市民ヴィンス
著者
ジェス・ウォルター
ジャンル
犯罪小説
星の数
★★★
出版社
ハヤカワ文庫
原作出版
2005
備考
訳者(田村義進)あとがきより

男はすべての過去を捨てた。

四年前、三十六歳のときのことだ。それ以前のものは何も残っていない。友人も、恋人も、住所も、経歴も。そして前科も……

今はスポーケンという西海岸の小さな街で、ドーナッツ屋の雇われ店長として暮らしている。

名前も変えた。新しい名前はヴィンス・キャムデン。男は新しい人間に生まれ変わった。

だが、名前を変えても、住む街を変えても、心の内側にあるものはそう簡単には変わらない。男は世界を出し抜きたいという強い願望を持っている。人生を端からなめてかかっている。本人はそれを“ずる”の遺伝子と呼んでいる。

もって生まれた性分なのか。それとも、みずからの自堕落さの単なる言いわけなのか。いずれにせよ、毎夜カード賭博にうつつをぬかし、クレジット・カード詐欺とマリファナの密売でせっせとアブク銭を稼いでいる。娼婦たちともよろしくやっている。要するに子悪党だ。傍目にはじつに気楽そうに見える。

誰だって人生をリセットしたくなるときはある。誰にだって忘れたい過去や過ちはある。だが、男は好きこのんで新しい人生を選びとったのではない。そういったお気楽な生活に満足し、安穏としているわけでもない。それは国家によってなかば強制的に押しつけられたものだ。

アメリカには、マフィアの犯罪を裏づける証言を得るため、協力者の身の安全を保障するというシステムがある。同意すれば、協力者は罪を免れ、見返りに新しい身元や住居や仕事を与えられる。それが証人保護プログラム(Witness Safety Program)と呼ばれるものだ。

ヴィンス・キャムデンはこのシステムに組み入れられていた。だが、それで身の安全は百パーセント保障されたわけではない。マフィアには、オメルタという厳しい沈黙の掟がある。組織内部のことは絶対に外部に漏らしてはならず、それにそむいたら、凄惨なリンチや殺害などの制裁が加えられることになる。

だから、ヴィンスはつねに怯えている。いつ居場所を見つけだされ、殺される日が来るか分からないのだ。寝覚めの悪い夜もある。死んだ知人の数をかぞえなければならない日もある。過去と決別するのは容易ではない。

ときは1980年10月。折しも、ジミー・カーターとロナルド・レーガンの大統領選の真っ最中で、投票日の八日前のことだ。ヴィンスのところにも、有権者登録カードが送り届けられる。投票に行ったことはいままで一度もない。十四歳のときに犯した重罪により、選挙権はこれまでずっと剥奪されていた。今回、投票できるようになったのも、連邦政府に協力したことに対する見返りのひとつだ。

“四年前と比べて自分の暮らしはよくなっているか”と、大統領候補のひとりは有権者に問いかける。

最初はそんなことはどうでもよかった。大統領選挙などまったくの他人事でしかなかった。だが、政治を自分の人生のアナロジーと考えたとき、それはにわかに現実味を帯び、身近なものになりはじめる。どちらの“糞ったれ”に投票するかは、まっとうに生きるとはどういうことなのかという問いと重なりあう。ヴィンスは見え隠れするマフィアの殺し屋の影に怯えつつも、本当に生まれ変わるための条件と手だてを真剣に考えはじめる。

新鋭が読書界にその名を知らしめたアメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長篇賞受賞作。


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