昏い部屋
著作名
昏い部屋
著者
ミネット・ウォルターズ
ジャンル
本格推理
星の数
★★★★
出版社
東京創元社
原作出版
1995
備考

昏い部屋――the dark room――この言葉は本書において、いくつもの意味をもっています。
   ひとつは、完全犯罪。
   ひとつは、文字通り、写真家の暗室。
   ひとつは、記憶喪失。
   ひとつは、頭蓋骨の中。

女主人公のジンクスは、ある日、病院で意識を取り戻します。自分の名前はわかる、自分が写真家であることも、結婚を間近に控えていることも……。何から何まで覚えているつもりのジンクスには、記憶喪失の自覚がないのですが、実は「事故」前後の記憶がすっぽりと抜け落ちていることを、医師、継母、友人に教えられます。

彼らによれば、彼女は婚約者のレオに捨てられ、しかも、そのレオが親友のメグとフランスに駆け落ちしたショックで、酒の力を借りて車で激突死を試み、奇跡的に助かったらしい。しかし、ジンクスには自分が自殺をはかったとはとても信じられません。

そんなある日、病室を警察が訪れて、ジンクスの知人が殺され、彼女がその容疑者筆頭であることを告げます。

実はジンクスは十年前に迷宮入りとなった別の殺人事件の第一発見者でした。被害者が知人だったことから、そのときもジンクスは有力な容疑者となっております。今度の事件でも、十年前の事件と同じ殺害方法が用いられ、ジンクスには動機がありました。事件がジンクスの「事故」の直前だったことから、警察は彼女が殺人を苦に自殺をはかったと見ているのです。

物語が進むうちに、ジンクスの記憶もよみがえります。けれども、その記憶は断片的で、しかも混乱しています。血まみれで倒れている人間、凄まじい恐怖。しかしジンクスは十年前に一度、それらを体験しています。だから彼女は、血塗れで倒れている人間と凄まじい恐怖を思い出しても、いつのことか自分でもわからない。

私は殺人を犯していない――そう思いたいのですが、ジンクスは自分の記憶に、そう言い切れない映像があるのを知っています。

自分の記憶を信用できない。それはつまり、誰が敵で、誰が見方かわからないということです。知人も、友人も、家族も、いや、自分の心も、ジンクスは頼ることができない。

そんなジンクスが、たったひとりで刑事たちと渡り合う場面は、まさに真剣をとった勝負で、彼女が警察の疑惑をひとつひとつ論破していく有様は、鮮やかのひとことに尽きます。この作品がおもしろいのは、頭のいいのがジンクスだけでなく、刑事たちも(ジンクスを頭から殺人犯と決めてかかっている警部でさえも)そうだからでしょう。頭のいい同士が推理と論理の頭脳プレーで火花をちらす――本書ではその勝負をこそ、愉しんでいただきたいのです。

本作で安楽椅子探偵……というより、病室探偵をつとめるヒロインのジンクスですが、いかにもミネット・ウォルターズが生み出すキャラクターらしく、魅力的で強烈な個性の持ち主です。誇り高く、自立心が強く、聡明で、とっつきにくく見えるけれども、彼女の誠実さと孤独を見抜いた人々からは深く愛されている。ただし、その誇り高さゆえに、どんな辛いことがあっても弱い自分を頭の中に押し込め、すべて自分で切り抜けようとし、絶対に助けを求めないのですが、その頭蓋骨に閉じ込められた彼女の一部は、眼という名の窓から叫び続けています。助けて、と。

そんな女主人公を脇で支える準主役級の登場人物はもちろん、ほんの一瞬しか出てこない端役でさえも、愛情、憎悪、怒り、悲しみといった感情を互いにぶつけ合い、人間臭く、とても印象的です。たとえ憎まれ役のキャラクターでも、その人がなぜジンクスを憎むか、ひどい言葉を投げつけるかが、理屈ではなく感情で伝わってくるので、単純に「悪役」とは思えません。


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