「あ、雨だ!」
この間投詞から、いったいどんな状況が想像されるでしょうか?
こんなに言葉が短いと、想像力の翼をフルにはばたかさないと、事態はさっぱり相手に伝わりません。またわかってもらえたとしても、受けとる人の立場によって、そのあとにくる反応は、さまざまに変わってくるでしょう。
たとえば、この場合、ある一家のある朝のこと、とおおざっぱに時間と空間をかぎってみましょうか?
「傘を会社に置き忘れたままだった。こいつは困った」と父親。
「いけない、洗濯物がぬれちゃうわ!」と母親。
「あしたの遠足はだいじょうぶかなあ?」と小学生の子供。
このように三者三様の反応があらわれてきます。では、次の言葉は?
「九マイルもの道を歩くのは容易なことじゃない。まして雨の中となると大変だ」
ゆきずりの男二人が話していたこの言葉から犯罪のにおいをかぎつけたとしたら、あなたは安楽椅子探偵の資格じゅうぶん、といったところですが、じつはこの言葉はある学校の英作文クラスの教室の黒板に書かれたものです。
「この文章から可能な推論を引きだしてみたまえ」と教師のハリイ・ケメルマンは学生たちにうながしました。
つまりケメルマン教師は、「言葉というものは真空中に存在するものではなく、通常の意味を超える含蓄を持つものであって、使いようによっては、ごく短い組み合わせでも、幾通りもの解釈が得られる」という実験をするつもりだったのです。
ところが、こうした教育学上の新実験においてしばしば起こるように、この試みはあまり成功しなかった。どうやら生徒諸君はこれを手の込んだ罠ではないかと考え、黙っているに如くはないと判断したらしい。
そこでついむきになって、おだてたり、ヒントや助言を与えたりしているうちに、いつしか自分からその罠に引きずり込まれてしまった。
ケメルマン教師は推論に推論を重ね、試みに試みを重ね、しだいしだいに深くはまりこんでいった……